021仏法聞き難し 

石見孝道

それは、今から10年ほど前の出来事です。あるところで同朋会があり、法話の後に座談会となりました。その時参加されていたのは、よくお寺参りをして仏法を何十年も聞いてこられた方ばかりでした。

そんな中、1人のおばあさんが言いました。

「やっぱりお寺参りをして、仏法を聞かせてもらわんといかんね。真宗の教えを聞いとらん人とは、もう話にならんもんね。自分のことだけしか考えておらんというか、だいたい人の話を聞く耳をもっとらん」

それを黙って聞いていた、別のおばあさんが一言言いました。

「あんた、そんなら聞かんほうが良かったね」

真宗の教えを聞いたということによって、聞いていない人が愚かに見えたりするのは、本当の意味で聞いていない証拠なんでしょう。その時、すでに真宗の教えは自分を善人にする道具となっているのでしょう。「聞く」ということの難しさを思います。

ある先生は「仏法を聞くということ、それは私の思いが破られる経験です」と言われました。つまり、仏法は私の思いを固めるためにあるのではなく、私の思いを破るはたらきとしてあるんだということなのでしょう。

私たちはこれまでに様々なものを利用して、私という立場を固めてきました。しかし、そこにはいつも「不安」というものが隠れついているのではないでしょうか。

ある先生は「不安こそ如来なんですわ、如来が不安という形ではたらきかけておるんだ」と言われました。それは、私のものではないものを私のものにし、本当でないものを本当だとしている私たちにあり方が、不安という形で問われているのでしょう。誰でも命を終わるときにはすべて置いていかねばなりません。家族も財産も地位も名誉も、そしてこの身も、実は全部が借り物なんです。そのことが深く頷けた時、初めて仏法を聞かせていただいたと言えるのではないでしょうか。