019測り知れない深さ

岡田豊

私は3年前に母を亡くしました。1年3ヶ月ほど、入院したり少し良くなって退院したりしてましたが、咽に食べ物を詰まらせてしまい最後の3ヶ月は、意識不明で呼吸も自分でできなくなってしまいました。お医者さんの話では、回復するかもしれないということでしたが、結局そのまま死亡しました。

毎日のように、病院に見舞いに行きましたが、特に反応するわけでもなく、人工呼吸器や、様々な医療機器の音がするだけで、虚しく感じました。2月、3月するうちに、そんな母の姿を見て、何の反応もしないのに、一体どこに生きている意味があるのだろうかと、ふと思いました。

何かの役に立つ、誰かの役に立つ。そのことはとても大事ですし、素晴らしいことですが、何の役にも立たなくなった人間。それはもはや、生きる意味を失ったのか。もし若くて使えるとしたら、臓器を提供できるという意味しかもたないのか。こんなことが頭の中でぐるぐる回り始めました。

この役に立つ立たないで、人間を見る観点は商品や道具・資源などを見るのと同じ見方ではないでしょうか。利用価値があるか、交換価値があるかどうか、高いか低いか。したがって、そういう価値を失った途端、同時に存在理由をも失い、時としてゴミになってしまいます。

けれども、当然のことながら、役に立つ立たないで私たちは生まれてきたわけではありません。人間をあたかも商品として、道具として見ることこそ、しかも、自分の肉親や自分自身までもそのように見ることこそ、私たちの傲慢さの現われでしょう。

今から考えてみると、そんな浅い眼差しでは、とうてい測り知れない深さを「いのち」はもっているのだと母は声なき声で遺言したのだと思います。