藤井恵麿
最近、私の寺では「永代経」「報恩講」「同朋会」等への参詣人・参加者がだんだん減ってきました。寂しい気持ちの中で「このまま往くとどうなるのか」という不安な気持ちになることがあります。
そのような中である日のこと、門徒さん宅にお参りに行った時のことです。そこの55才前後の奥様から、お内仏のお給仕に関していろいろと尋ねられました。例えば「報恩講でのローソクは赤ですか?月参りでのローソクは赤ですか?白ですか?」「ご飯さんをお供えする場所は何処ですか?」「お華束(けぞく)さんはどのように盛ったらよいのですか?また、そのお供えをする場所は?」等々。
それで私がそれぞれの質問に答える度に、その方は小さなノートにそれを書き留めておられました。私はその姿に少しばかり驚きました。何故ならば、私の寺の門徒さんの中で、そこまで熱心にお内仏のお給仕に関して尋ねられる方は、ほとんどいなかったからであります。というより、間違っておられる方も少なからずおられて、そのことをお参りに行った時に指摘させていただくこともありますが、その後、再びお参りに行った際に、また同じ場所を間違っておられるという方もおられます。
だからこそ、何故この方は、ここまでして真剣なのかと疑問に思っていたところ、次のように言われました。「息子の嫁にも仏さんのことを伝えていこうと思うが、それにはまず私が知らなくてはいけない。しかし、私は仏さんのことをほとんど何も知らないので、今ここでお聞きしているのです」と。
私はその言葉を聞きましてハッとしました。「物事が伝わるということは、私が体得して初めて、次に伝えることができる」ということを教えられたからです。何とかして参詣人・参加者が増えないかという、他者を動かすことばかり考えて、自分が抜け落ちている私自身の傲慢な在り方、そしてまずは私自身が全身を挙げて聞くことが要であることに気づかされました。