014如来の本願をわが身にいただくまでは

佐藤幸男

この世で数多くの生物がある中で、言葉の分かる人間の身を受けることは容易なことではありませんが、今、私はおかげさまでその人間の命をいただきました。また、仏法はよほどの深いご縁がなければ聞くことができませんが、今、私は不思議なご縁で聞くことができました。以下云々…南無阿弥陀仏…

これは三帰依文現代語試訳の文の一部でございます。

仏縁による集まりの場で発言させていただく際に、さらに続く文を併せて拝読することによって、真宗の教えについて深く理解していない私が、念仏をいただくことへの感謝と心得、また今日縁をいただいて申し上げる念仏の入り口にさせていただきます。

自分はいつもお参りさせていただくお寺で、また家のお内仏で、ご本尊に向かってお称名をさせていただいております。自分では自然体のつもりで、御名を声に出して称えるを常としておりますが、時にはそれが、本当の念仏になっているのかと自分に向かって問いかけるのです。

如来の本願は「すべての凡夫が安楽国土に生まれて往生をとぐる」と願われていると言われております。しかし、それには「信心をもって」とおおせになり、その上の念仏は「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべき」と御文(おふみ)さんで教えていただいております。

名号の名告(なの)りは限りなく深く広く重いもので、その中から自分が問われていて「軽々と心得べきではない」といましめの心を忘れず、常々信心を心がけ、おごることなく「如来の本願に目覚める念仏」を続けさせていただきます。南無阿弥陀仏