神谷覚
日本には世界中から食材が輸入され、食糧については十分であり、食べ切れなくて捨てられているものが半分くらいあると聞いたことがあります。冷蔵庫の奥にあったため、まだまだ食べられるものであっても、賞味期限を過ぎたといって捨てる。店においても売れ残った食品は捨てられる。本当にもったいないことであります。
以前に、あるお坊さんが小学生の頃、学校で生きた鶏の首を絞め、首をはずして血を抜き、毛をむしり取り、血だらけになって、それをさばき、料理を作ったことがあると話されました。それを聞いた人が「その料理は食べる気にはなれなかったでしょう」と言われましたが、そのお坊さんは、学校の先生に「この料理を食べてあげることが鶏に対して供養になるのです。本当にかわいそうなことをしたと思ったら美味しく食べてあげなさい。私たちのために大切な命をくださってありがとう、と感謝していただきなさい」と言われて、むごい状況の後ではあったけれど、鶏の供養であるならばと思い、グッとこらえたら食べられた。そして、美味しかったそうです。
人は普段、一日に3度の食事をしますが、いずれも生き物のいのちをいただかずには食事になりません。ご飯は米のいのち、パンは麦のいのち、みそ汁は大豆と野菜やアサリなどのいのち、その他魚のように水揚げされたもののいのち、あるいは既に解体されて店先に並べられた肉となったものなどのいのちを頂戴して食事がいただけるのです。食事ができることは感謝すべきことではないか。自分自身がこのことに改めて気づかさせていただくご縁があったのは二年ほど前のことです。保育に携わる方々を対象にした保育研修会で講師が話されたことは「子どもたちに感動を与えていますか。感動を与えてください。他のもののいのちをいただいて食事ができることを理解できれば感動できます。そのことを教えてあげてください。感動できなかったら、犬や猫のように餌を食べていることと同じです」ということでした。このことを聞いてから、美味しくないものであっても「こんなまずいものいらない」という傲慢な自分を反省させられ、いのちをいただいて食事ができることの有り難さ、もったいなさに感謝しなければならないという気持ちに変わりました。