水野朋人
テレビ、新聞を見ておりますと殺人、詐欺、窃盗等痛ましい事件が毎日毎日報道され、多く私たちの耳を流れていきます。しかし、その中で、犯人が明らかになることにホッとするものをもち、無感動に犯罪にいたるまでの経過報道を興味をもって聞き入るものは何でしょうか。
先日、下の子どもがテレビを見ておりましたら、正義の見方が最後に出てくるまではハラハラして見ていまして、正義の味方が最後に悪者をやっつけるということにホッとして喜んで見ていました。その姿を見まして、私たちは悪人を許さない心をもち、悪人はやられなければ安心できないものがあるのだなあと思わされました。そして、それを見ている私も、どうも悪を許さない善人であるようです。いつも私は善人であるようです。ですから、犯罪者が明らかにされるところにホッとするものを感じるのではないでしょうか。
はたして悪人は私とは違う特別な人でしょうか。
凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず…(真宗聖典545頁)
と聖人は言われています。決して悪人という特別の人はいないのではないでしょうか。縁によるものであって、善人も悪人もともに「凡夫」であるというのが親鸞聖人の教えではないでしょうか。この私も凡夫にほかならない。この凡夫の地平を見失った時「あんなことをして」と他を蔑(さげす)み、差別し、同朋を見失ってしまい、悪人が明らかになるとホッとするのではないでしょうか。
「凡夫」は、すなわち、われらなり。(真宗聖典544頁)
と凡夫という領きに悲しまれる身、救われるべき身という「われら」の世界が開かれ、また「凡夫」という本願の悲しみを感受せしめられるのではないでしょうか。