高木彩
テレビで、人間関係力テストと題して、良い人間関係を築く能力をテストしていました。表情や仕草、言葉を通して、人の気持ちを推し量ったり、どんな時も他の人と協調して行動しているか、また自分の感覚が世間の多数の意見と同じかどうかで、能力を量る問題もありました。
私自身テストをしていて、人間関係の能力を知りたいというより、私の人を見る目や考え方、物事を見る感覚は、社会の常識とずれていないと思いたいというのが、自分の本音でした。そのテストでは、自身の人を見抜く力や周りの人との協調性があれば、良い点を取れて、良い人間関係を築けるということになるのですが、それは上辺だけの人間関係になりかねないと思うのです。
最近お参りに行った家のおばあさんが親戚のおばさんのことを姉さんと勘違いして話していました。隣の人が間違っているよと言っても、おばあさんは間違っていることが分かりません。するとおじいさんが「うん、うんと頷いてやればいいんや」と言うので、隣の人が「うん、うん」と言ってあげるとおばあさんも笑顔で頷いて「あの人お姉さんやなくて、おばさんやった」と勘違いに気づきました。私は、人の間違いをすぐにあげつらって、間違いを正そうとするのですが、おじいさんは、おばあさんの間違いを分かった上で、おばあさんの言ったことに頷く。それは、おばあさんの存在そのものを認めているんだよという意思表示のように感じました。おばあさんは自分の存在を認めてもらっていると感じたからこそ「自分は正しい」という箍(たが)を外すことができ、自分の間違いにも気づくことができたように思います。
『歎異抄』で、
わが御身(おんみ)にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。(真宗聖典640頁)
と書かれているように、この世の善悪ばかりに振り回されて、本当の願いに気づけない自分であることを、聖人は身をもって教えてくれています。そんな自分でさえも認めてくれる人がいるだけで、心が救われます。どんな人でも相手の存在を認めるところから、自分が正しいとか、間違っているという次元を超えて、相手の思いに頷き、また自分の思いも伝えていくことができる。そこから世間体や社会的価値観・常識を超えた心の人間関係が築いていけるように思います。