上杉義麿
昨年暮れに開かれました全日本フィギュアスケート選手権で優勝した村主章枝選手が、演技を終えた後「カミサマ」とつぶやいたことが先日の新聞紙上に報じられておりました。私も中継の映像を見ていて確かに村主選手の唇が「カミサマ」と動くのを見ました。また、その後のインタビューでも「優勝できたのはカミサマのおかげ」という言葉が聞かれたとも報じられておりました。私はこのことを聞き、驚きとともに大きな感動を覚えました。
既にオリンピックや世界選手権といった大きな大会で何度も賞を取り、世界で評価をされている一流のスポーツ選手です。そうした賞や評価の裏側に、どれほどの厳しく激しい努力の日々があったことか。我々は想像するしかないわけですが、それは、正しく自力を極める日々であったといえましょう。そのようにして一つの技を極めた、自力のシンボルともいうべきスポーツ選手に対して人目もはばからず「カミサマ」の名を口にする。そこに私は人間の真の姿を見た思いがいたしました。
自分の力、はからいを超えたものをある人は「カミサマ」と表現いたします。私たちはそれを「如来の他力」と申します。「他力」というと、何もかも人任せにし自分では何もしないことだと誤解されることがあります。しかし、他力の教えは自ら努力することを全く否定するものではありません。努力し、自分を鍛えることで何もできると思っていた。そして、ぎりぎりまで努力を積み重ねてきた。しかし、そこに待ち受けていたものは度重なる怪我であり、次々と現れてくるライバルたちであった。これはもう自分の力では何もしえない、何も変えることのできないことです。しかし、確かにそうした状況が目の前にある。その時人間である限り、自分の力に限界があるということに気づかされ、立ちすくんでしまします。しかし、やはり人間である以上、何かをしなければなりません。そういう状況に立たされた時、人は初めて自分の力を超えたものと向き合います。それこそが他力の教えに会うということなのです。その時向き合った如来は、よく気がついた、それでよい、それでこそ人間だ、と私たちを包んでくださり、もう一度歩き出すために後押しをしてくださいます。私たちは今生きていること、そして、後押しされて何かをなすことができるということに感謝し、また明日を生きてゆくことができるのです。
落ち込んで、またそこから自分を奮い立たせて明日を生きてゆく。考えてみればそれは日々「自分」でしていると思い込んでいることです。しかし、ぎりぎりまで追い込まれた時に、またやろう、歩き出そうとできること、これはもう自分ではない、大きな力の後押しなくしてはならないものです。私たちがぎりぎりまで追い込まれるということは、一生の内でそう度々あることではないでしょう。けれども、日々の何気ない営みの中にも、大きな力即ち他力による後押しというものが現れているのです。
今一度、大きな力に包まれて生かされ、動かされている自分、という見方で日々の自分の姿、そして営みを見直してみたい。そんな思いにさせていただいた村主選手の姿でした。