藤井正子
「阿弥陀様を一人ぼっちにしていませんか」
この言葉は今年届いた年賀状に書かれていました。この時「阿弥陀様を本当に必要としていますか」「何を頼りにしていますか」と問われたような気がしました。そして『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』の中にある上人の仰せと重なってまいりました。正月一日にご挨拶にまいられた道徳に、
道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏(ぶつ)にまいらせ、このもうしたる功徳(くどく)にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御(おん)たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり。(真宗聖典854頁)
という仰せの言葉です。つまり、口に称えてる念仏は同じでも、心得に違いがあると言われるのでしょう。
私たちは「念仏を称えなさいよ」と勧められますと、助かると思って念仏を一生懸命たくさん称えることがありますが、困ったことが起こると「あの時お参りをしなかったから」とか「朝晩お参りしているのに、何でなん」というように、念仏を取引の言葉のように思ったりします。
南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀仏の衆生を救済するための願いと修行が成就した相で、南無はたのむという衆生の機を表し、阿弥陀仏はたすけるという仏の法を表すので機法一体ともいわれます。この「弥陀をたのむ」ということは、念仏する自分自身が問われ、そこにどこまでも自分の思いを立てていこうとする自分の執着心の深さを知らされ、阿弥陀仏のこころに頭が下がったということなのでしょう。
私たちは、南無阿弥陀仏のいわれを明らかに聴聞せず、また、称えている自分自身を問うことのない時、仏様を自分と離れたところにおくことになり、念じられる仏様と念仏する私が、別々になってしまいます。阿弥陀様を一人ぼっちにしている原因は、自分の力で何とでもなると思っている私自身にありました。