012出会い

伊藤誓英

さて春です。となれば多少なりとも出会いのある季節ではありませんか。その先には喜びや楽しみを共有しあえるような出会いとなることもあれば、性格や価値観の差異による不仲を生みだす結果となるような出会いもあると思います。

聖徳太子は十七条憲法に、誰もがそれぞれに執着をもつ存在であり、また誰もが善人と悪人の両方の姿をもつ存在でもあるとし、人間関係における衝突を通し、自分の思い込みや欠点に気づく機縁としなくてはならないと述べられました。

人間は十人十色であり、そこには十色の主義主張が存在します。それが個々の立脚点でありますが、それを絶対化することは耳をふさぐことにもなり、また一方的な視点で他者を見ることは目をふさぐことにもなるのだと思います。戦争だけでなく職場や家庭内においてもいろいろな衝突がありませんか。しかし、十色の主義主張と衝突することにより、自分の主義主張が問い直されたり、明らかになったり、バラバラだからこそ深めあえたり、豊かになったりする。それが「出会い」より開かれる世界ではないでしょうか。

春は出会いの季節であると同時に、新たなる目標を起てたりもする季節でもありませんか。「目を開けて、聞く耳をもつ」ということを心のどこかに留めて、人と出会い、その先に自分に出会い、多くの出会いから学ばしていただけるような歩みが私もできればと思います。

011自分を知ること

金森了俊

先日、レジャーセンターに遊びに行きました。駐車場が満車なので、最後尾に並んで待ちようやく入り口まで来た時、私の車の前に、突然横から進入してきて停まり、人を降ろすためにもたもたしている車がありました。少しでも早く駐車場に入りたかったので「こんな所で人を降ろすなんて非常識な人だ」「いい加減にして欲しい」と怒りがこみ上げてきました。駐車場に入っても駐車できるか不安でしたが、ちょうどセンター正面のところに来た時に、私の車の横から一台出て行きました。その瞬間、「やった!こんないい場所が空いた。なんて今日はついているんだ」と思い、特等席に駐車できました。喜びと共にここに停めることができたのは「先ほどもたもたしてくれた車のおかげだなー」と思えました。

「たまたま人を降ろした車があった」「たまたま帰っていく車があった」という事実に振り回されて、一喜一憂しているわけです。この時、私は思わず蓮如上人の「行くさきむかいばかりみて 足もとをみねば 踏みかぶるべきなり 人の上ばかりにて わがみのうえのことをたしなまずは 一大事たるべき(真宗聖典889頁『蓮如上人御一代記聞書』191)」の言葉を思い出しました。この手のひらを返すようにコロコロ変わるあさましい心にあきれてしまい、そして先ほどの運転手を怒っていた自分が不思議にも恥ずかしく思えました。

蓮如上人は「人生の一大事」とは、わが身を知ることと教えてくださいました。これは丁度、私の顔は鏡の力によらなければ見えません。それと同じように私の心は私の力では見えません。仏の光に照らされて、初めてこの私の身勝手さを知らせていただくのであります。たえず、光に照らされる聞法のご縁を大切にしたいと思います。

010無上尊(むじょうそん)となるべし

三浦崇

春風と共に甲子園球場から選抜高校野球の大会歌『世界に一つだけの花』のメロディが流れてきます。

小さい花や大きな花

一つとして同じものはないから

ナンバーワンにならなくてもいい

もともと特別なオンリーワン

日本ではここ5年連続して、年間の自殺者が3万人を超えていると報じられています。世界でトップの長寿大国日本は、また世界で有数の自殺大国でもあるということでしょうか。このことについて、作家の五木寛之さんは、「十数年にわたる泥沼のベトナム戦争で、アメリカが失ったアメリカ人の命は約六万人であった。日本では空襲警報もならず、爆弾も落ちず、機関銃の弾も飛んでこず、物は溢れスポーツや音楽や様々な催しが華やかに行われている中で、わずか2年間でそれ以上の一般市民の死者が出ている。平和な時代の陰で見えない戦争が続いているのではないか」と言われます。

4月1日は親鸞聖人の、そして4月8日はお釈迦様の誕生日です。お釈迦様は誕生されてすぐ七歩あゆまれて「天上天下唯我独尊」と宣言されたと伝えられています。

お釈迦様の誕生の姿を通して仏教が私たちに教えるものは、人間は生まれて歩むものであるということです。そして、その歩みは、他人と比べ競い合って、自分が少しでも優れたものをめざす、最上尊・ナンバーワンを獲得しようとする歩みではなく、他と比べる必要がない、かけがえのない、最上尊・オンリーワンの自分に目覚め、そのいのちを生きよと教えるものであります。

それは、満足を求めての歩みではなく、満足から出発する歩みであります。いのちを飾り立てる歩みではなく、生き生きといのちを輝かせて生きる歩みであります。

世界でトップの長寿国を手に入れて、延びた寿命をどう生きるのか。その道が見出せない限り、長寿国はそのまま自殺大国にならざるを得ません。

静かに、しかし深く強く「吾(われ)、当(まさ)に世において無上尊となるべし」とのお釈迦様の教えが求められていることを思わずにおれません。

009世界に一つだけの花

藤本和哉

『世界に一つだけの花』この歌は、人気グループ「スマップ」が歌ってヒットした歌です。今年の春の選抜高校野球大会のテーマソングにもなっています。様々な歌がありますが、この歌の歌詞にはたいへん考えさせられるものがあります。歌の中で、次のようなメッセージを送っています。

僕ら人間はどうしてこんなに比べたがる

一人ひとり違うのに

その中で一番になりたがる

そうさ僕らは 世界に一つだけの花

一人ひとり違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

一つとして同じものはないから

ナンバーワンにならなくてもいい

もともと特別なオンリーワン

まさに、今の人間社会の現状を言い当てていますし、人間いかに生きるべきかに対して、一つの答えを示してくれています。一人ひとり違うのだから、他人と比べるよりも自分なりの生き方を大切にすること、みんなの中の一番よりもかけがえのないたった一人の私でありたいと訴えているのです。

人間本来の生き方について考えさせられます。私たち一人ひとりが「特別なオンリーワン」であれば、先に咲いた花を羨むことはないのです。いつ、どこで、どんな花に咲こうともかけがえのないたった一人の私なのです。しかし、ついつい背伸びをしたり、他人と比べてしまっている自分がいるのです。それも人間だからでしょうか。

『阿弥陀経』に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」といところがあります。それぞれの色が、それぞれの色に光るということです。「オンリーワン」である、ありのままの自分を素直に受け入れて、一日一日をていねいに生きたいものです。

008 気づかないお育て

安田豊

「ご院さん、大事な体だから風邪をひかないでね。代わる人がいないんだから」

冬場のお参りにお邪魔をさせていただくと気持ちのこもった暖かいこの言葉を何度となくかけていただきます。「ありがとうございます。あなたもお体を大切に。代わりはいませんよ」といつも返答をするのですが、勿体無いことに「有り難い」とは思うものの、さしてそれ以外の思いはありませんでした。

そんな日々を送る中、通りがかりの寺院の掲示板にふっと目がとまりました。

「周りの人たちの愛が私を育ててきたのだ。それを忘れてはならない」

私はこの言葉が目に飛び込んできた瞬間、あの会話が頭に浮かび、自分自身が恥ずかしく、また情けなく思えたことをよく覚えています。その時の気持ちを言葉にすると何かぎこちないのですが、私はまさにその文字によって今までの自分の姿に気づかされたのです。

皆さんから支えられ、お育てをいただいているということを忘れた生活を送る毎日。今こうして気がついてみたら、すでに住職の身だったという事実。そのお育ての上に成り立っている事実に気づかせていただいた時、今まで以上に皆さんからのお心遣いと、また同時に住職の責務を痛感せずにはおれませんでした。

本当に何気ない日常会話がきっかけでしたが、「日々このような形でお育ていただいているのだな」と気づかせていただきました。そう思う今この時もお育てをいただいている私です。

007「勿体無い(もったいない)」という言葉

瀧幸子

先日、同朋の集いで、あるお方が「近頃は、冷蔵庫の中で食べ物を腐らせる達人が増えましたね」と皮肉な指摘をされました。私も同じような失敗をしています。安い品を見るとついつい購入してしまい、いつしか賞味期限切れとなったものが冷蔵庫の奥から出てきます。そのたびに「ああ、勿体無いことをしてすみません」と小声でわびながら、そっと捨ててしまいます。

食べ物を粗末にしてしまった申し訳なさから出る「勿体無い」という感覚と、昔の人が言われた「勿体無い」ということとは少し違った面があるようです。

平野修先生は『親鸞からのメッセージ』という著書の中で「勿体無い」ということについて述べておられます。「法蔵菩薩」とか「本願力」とか表現されても私たちには馴染みにくいだろうということからでしょう。身近な例として「勿体無い」という言葉の意味が説かれていました。

「勿体無い」とは体(主体)が無いということではない。それは、例えばのどが渇いてやりきれない時に冷たい水を飲んで「ああ美味しいなぁ、水って有り難いなぁ」という気持ちになる。水自身には「どうかしてやろう」というつもりはないけれど、「ああ美味しいなぁ」ということを通して愛情というものを感じ取ることがある。水に限らず、お米など私たちを在らしめている繋がりいついても、何か「願い」というものがあるかのような働きを感じるということで、それを昔から「お陰さま」とか「勿体無い」という言い方で教えられてきたんです、と。

平野先生のご了解に聞いてみますと、私たちが軽い意味で使っています「勿体無い」という言葉も、「勿体無い無量のご縁の集まりですよ」と、私たちの生き方が問われ、願われているように感じられます。

「勿体無い」とは、本当の願いに生きて欲しいという「南無阿弥陀仏」に繋がる言葉として、大事にしていきたいものです。