最近法話というものの難しさを痛感しています。一時期法話は古いもの、講義が新鮮に感じられた時がありました。しかし、それはとんでもないことでした。ある先生から「法話というのは仏様のお声の響きを身を通して味わった事実を語るのであって、人間の思想や考えではない」と静かな口調で説かれた時「はっ」とさせられました。ちょうど放蕩息子が親の思いが身に響いて、思わず頭が下がって、その慈悲を感じながら語る言葉は、どんなに学歴がなくても経験が浅くてもすべての人の心に染みとおるようなものでしょうか。何かができる者になろう、バカにされたくない、どうにかして理解しようとするすべての手立てが壊れた時、分かろうとするその手が撤回された時に聞こえてくるものとでも言えましょうか。
厳粛な今・この時をいただいて、罪深い身をおしいただいて生きる。そういう生活者には疲れや虚しさを通ったからこその底抜けの柔らかさがあるといえます。そういう世界をすべての人がいただける道が念仏往生の道として開かれている。その道を私も皆様とともに歩ませていただきたいと思います。