029「たすけられる」ということ 

池田徹

念仏によって「たすけられる」ということは、どういうことでしょうか。思いますに「すでにたすかっている」ということに気づくことが「たすけられる」ということではないかと考えています。

では「すでにたすかっている」ということの意味は、どういうことでしょうか。いつでも・どこでも・どういう状況でも、「今・ここの・私」として「しなければならないこと・できること・したいこと」があるということです。その人にだけ与えられた「現場」と、その人にしかできない使命と責任があるということです。「もともと特別なオンリーワン」という歌がありましたが、その言葉と相通じていきます。しかし、我々は、その使命と責任が与えられているにも拘らず、都合のいい現実には向き合いますが、都合の悪い現実に対しては、絶対拒否します。存在自体は都合の善し悪しに関係なく、出会っている現実を受け入れて生きているのですが、心が認めないのです。よく考えますと、それがたとえどんな現実であっても、まずそれを受け入れるということがないと何も始まらないのです。受け入れればそこから新しく始めていけるのです。「一歩」足を挙げて、立ち上がっていけるのです。

しかし、我々は、先ほど述べたように、いつでも現実に対して自己中心的に善し悪しを決めつけ、善きものは受け入れ、悪しきものは排除するという生き方になっているのです。だから都合の悪い現実に出会ってしまうと、それを徹底的に排除し、生きることが始まらないのです。その「現場」を本当に生きることにはならないのです。事実はその現実を生きているけれども、自己中心的な心によって、生活が生き生きしないのです。自分が生きているのに、自分を生きたことにしない傍観者的・被害者的人生としてしまうのです。
実は我々のこの生き方が、どれほどいのちに対して、自己に対して、他者に対して暴力的であるか。我々の日常の心、善し悪しの心は「存在への暴力」としてはたらいているのです。

念仏による救いとは、その罪の身を知らされることを通して、「今・ここの・現実」に還り続けていくこと、「今・ここの身を生きるもの」に育てられていくことです。具体的に「普(あまね)くもろもろの衆生と共に」苦労していける人間に育てられていくことです。他者と関わり続けていける意欲を賜ることだと思っています。