三浦統
ある峠道、自転車を押して山を越えようとしているおばあさんを、車で追い越しました。辺りはもう真っ暗です。不思議に思い、引き返して、何処まで行かれるのか尋ねてみました。するとおばあさんは「わからん」とおっしゃいます。「何処から来られたのですか」と尋ねてみても「わからん」とおっしゃいます。疲れもあったのでしょう。イライラしたり私におびえたような目をしたりと、私を信用して話をしてくれるまでにずいぶんと時間が必要でした。おばあさんは病院から親戚のお家へ向かう途中、完全に方向を見失い、いま自分が何処へ向かっているのか、自分が何処にいるのか全く分からず、ただただ不安をかき消すかのように目の前の道を正反対の方向とも知らずに、体力の限り歩いていたのでした。
ふと思いました。私は自分の人生の行き先と現在地を本当に分かっているのだろうか。目の前の道を一生懸命歩き、その一生懸命さに満足しているだけで、実は自分の立っている所も分かっていないのではないか。だとすれば、道に迷ったおばあさんのように、不安に押しつぶされそうになりながら、人を信用することもなく、ただ体力を消耗していくだけの人生になりはしないか。そう思い、少し怖くなりました。
明治を生きた仏教者、清澤満之先生は、「我々がこの世で生きていくためには、必ずひとつの完全な立脚地がなくてはならない。もしこれなしにこの世で生活し、何事かを行うとするなら、それはちょうど浮雲の上で技芸を演じるようなもので、転覆を免れることができないのはいうまでもない。ではどのようにして我々は完全な立脚地を獲得するべきであろうか。おそらくは絶対無限者にたよる以外にうつべき手はあるまい」と、教えてくださっています。
絶対無限者、つまり阿弥陀仏をたよるほかに、迷うことなく人生を歩いていくことができない私なのです。そんな私の事実を、改めて確認させてくれた、おばあさんとの出遇いでありました。