020不安と向きあう

木名瀬勝

不安はどうして起こってくるのでしょうか。私の心が未熟であって、経験が乏しく、日常生じる問題に対処するだけの能力が備わっていないため、人間関係や社会関係において思うように立ち振る舞うことができないため、だから不安が起こってくるのだと思っていました。ですから、人に負けない自分、強固な自分を早く作らねばならない、社会のしくみを分析して、うまく適応できるようにしなければならない、そうすれば思い通りに安心して生きていけると思っていたのでした。

ところが、なかなか望みどおりの自分にならない、落ち込んだり、失敗する、そういう自分を認められなくなります。こんな筈じゃないと思う苛立ちが、周りの人たちへの憎しみとなって争ったり、あるいは不安を忘れるために目先の享楽だけ求めるようなことを繰り返してきました。しかし、年を重ねて経験を積んだつもりでも処世術を身につけても、不安は相変わらず起こってくるし、しっかりした自分というものができないのであります。その上、不安を忘れようとすることが逆に虚しさをどんどん募らせるのです。何故そうなってしまうのか、どうしたらいいのか、手がかりがありませんでした。

そんな時、ある先生が「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意(ほんい)」と『歎異抄』(真宗聖典627頁)の言葉を引かれ、間違った生き方をしている私たちを真実に引き戻そうとする働きが本願であり、間違った生活をしているから不安や、虚しさが生じるのである、と教えてくださいました。どうして間違った生き方をしているかというと、偽りの自分を「わたし」と思い込んで、その偽りの自分を満足させようとしているからだというわけです。このような自分を拠り所にしている限り、不安から離れることはできないことや、その不安に向きあわなければならないことを教えられました。