016雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す

檉豐

毎日、生活している私のいのちは、如何なる存在者として受けとめることができるかは大切な課題であります。

生きている私のいのちは、どのようないのちなのでありましょうか。いのちそのものに出遇っていかれました方が、私たちが宗祖として敬う親鸞聖人であります。

親鸞聖人90年の生涯は、9才で出家して比叡山に20年間籠もられ、並々ならぬ厳しい修行を果たし、勉学を究められ、いのちそのものの根元を追求し続けられた歩みであります。その歩みは、我が身一人に与えられたいのちが、一人のいのちを超えて、生きとし生ける全存在のいのちの輝きであったという名告(なの)りが『教行信証・化身土巻』において、「雑行を棄てて本願に帰す」(真宗聖典399頁)という言葉であります。本当のいのちに出遇い得たよろこびの叫びは、全てのいのちへの呼びかけとなっています。

しかし、雑行とは日常生活そのものですので、自分自身の力では棄てることは全く不可能であります。その場所を棄てて本願に帰すと名告ることは、自分自身のすべての存在が拠り処を否定される言葉であります。今、この現実の生活が、拠り処を求める場ではなく、虚仮不実(こけふじつ)を生きる存在者として自覚されてくる言葉が本願に帰すと名告ることであります。本願とは、仏に出遇うことであり、仏の呼びかけによって、雑行に生きているあからさまな自分のいのちに出遇うことなのであります。

『歎異抄・後序』に「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(真宗聖典640頁)とおおせられた、聖人の教えの精神によくよく聴聞していく歩みが大切であります。