015虐待するご縁・虐待しないご縁

内山智廣

最近、テレビのニュースや新聞の記事で「幼児虐待」あるいは「児童虐待」という言葉を毎日のように目にします。自称子ども好きの私は「どうしてそんなことをするのだろうか?」と、いつも腹立たしく思えてなりません。しかし、腹立たしく思いながらいつもあるできごとが思い出されます。

それは、私がある知り合いの子どもさんと遊んでいた時のことでした。よく一緒に遊んでもらっている子どもさんで、私にとって大切な友達の一人だと思っています。その子どもさんに、私の間違いを指摘されたのです。その時、私は少しムッとしてしまいました。

なぜムッとしてしまったのだろうかと、後で考えたのですが、私が「子ども」という存在を「未完成な人、自分よりも劣る存在」と思っている部分があるからだということに気づかされました。そしてこうした思い、考え方の延長線上には、虐待をしてもおかしくない自分の姿がありました。

親鸞聖人は『歎異抄』の中で「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(真宗聖典634頁)と言っておられます。つまり、人は自分の思いで自分の思う善いことをし、自分の思う悪いことをしてしまうのではなく、あくまでもご縁によるのだと。逆に言えば、ご縁さえあればどんなことをもしてしまう身であるということです。

私も子どもが好きで、虐待が間違った行為だと知っていて、そして何より、自分の思う正義感から、子どもに暴力をふるったりしないのだと思っていました。しかし、本当は自分の力で虐待をしないのではなく、たまたま虐待をせずにいられた、そうしたご縁がなかっただけなのだということです。改めてニュースや、新聞で見る「幼児虐待」「児童虐待」という問題が、私の問題であったと気づかせていただきました。