004浄土往生

北畠知量

往生とは、往って生まれると書きます。もちろん、それは浄土に往って新たな人間として生まれるということです。けれども、そのことが具体的にどういうことを指すのかは、今日ではきわめて分かりにくくなっていますね。

浄土真宗でいうところの往生とは、今ふうに言えば、「自我の世界」から「自我に執着しなくてもよい世界」に往って生まれるということになるでしょうね。

私たちには「自我」というものがあります。私たちは表によそ行きの面を着け、内では様々な計算をめぐらし、生き甲斐なるものを求めてがんばって生きています。その生き甲斐の中身をよくよく考えてみると、要するに、元気で長生きして威張りたいということに尽きるようです。

親しい人が亡くなると、悲しいけれども元気で生きていることを密かに喜ぶ自分がいます。つましく暮らしている人を見ると、「そこまで倹約しなくてもいいではないか」と思い、自分の何気ない贅沢にかすかな優越感を感じます。「人さまに喜んでもらえたらそれでいい」というボランティアでも「何もしない人よりはましだ」と威張っているものです。それが私たちの自我の姿なのです。

往生とは、そんな自我の生き方に執着せず、そんな生きざま全体を笑って見ておられるような心の世界に往くということなのです。私たちは、心の底から響いてくるいのちの声に耳を傾けながら、浄土往生を願うべきであります。そして生きているうちに、一度は浄土に往生すべきであります。自力を棄てれば、往生は決して難しいことではありません。