033報恩講

王來王家眞也

七百有余年前に亡くなられた親鸞聖人と今の私たちとは、報恩講によって深く結ばれております。聖人の作られた正信偈を共にうたう時、この頌(うた)のもつ響きは私の生命の根底と呼応し、その生命の真の意味を問わしめるのであります。

あらゆる生き物の中で、人間だけは自己の生命のもつ意味を問うという在り方に於いて他と区別されております。自己一人がその問いを背負う時、全人類の問いを荷負って立つという厳粛な意味をもつわけでありましょう。 それを聖人は、

弥陀の五効思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり(真宗聖典640頁『歎異抄』後序)

と、仰せられていたと伝えられております。ここに人生の根本問題が自己一人に荷負されており、それは聖人の教えを覚えたり知ったりすることによってのみ、成り立つものではないのであります。

それは、教えを食べ味わうことにおいて生命の活力となるのでありますから、その意味では、正信偈をよみうたう我々同行は食べ味わっているのであり、そのは背景は遠く釈尊以来連綿と伝承された仏道の歴史に裏づけられているのであります。

この意義を聖人は「如来大悲の恩徳」と仰がれ、その恩徳を仰ぐ道理を私どもは聖人から賜ったのであります。だからこそ、報恩講として大切にしているのであります。