037あとがき

『心をひらく』第25号をお届けします。
最近、お世話になった先生がよく口にしていた「姥捨て山」の話が思い出されます。
お話は、単なる道徳的な例え話ではありません。
息子は、村の掟で捨てに行くのだからとか、親が長生きすると子どもの食べ物が少なくなるので仕方がないのだという理屈をつけて、内心は気が進まないけども仕方がないのだと姥捨て山に母を捨てに行きます。なるべく家に帰ってこられないようにと分かれ道を右へ左へと曲がると、必ず曲がったこところで枝を折る母。「家に帰るつもりか」と思い、更に山奥深くまで母を背負っていく息子。母を捨てる場所が見つかって、最後に一言尋ねる息子。「母さん、どうして分かれ道にくると枝を折ったのか」「お前は日頃山に来たことがないから、帰り道迷わないように家の方へ向けて枝を折っておいたよ」と応える母。
殺される者が、殺す息子の心配をしていた。この事実が身に響いた時、母親の思いの中に息子の理屈が吸い込まれてしまった。そこで初めて自分の位置が決まったのです。山に向かっていた足が、具体的に母を背負って主体的に里に向かったのです。理屈や掟を越えて担う主体が誕生したのです。させていただいて喜ぶ主体が誕生した、心がひらかれた瞬間です。このひらかれた心に導かれて、私も生活していきたいと思います。

033報恩講

王來王家眞也

七百有余年前に亡くなられた親鸞聖人と今の私たちとは、報恩講によって深く結ばれております。聖人の作られた正信偈を共にうたう時、この頌(うた)のもつ響きは私の生命の根底と呼応し、その生命の真の意味を問わしめるのであります。

あらゆる生き物の中で、人間だけは自己の生命のもつ意味を問うという在り方に於いて他と区別されております。自己一人がその問いを背負う時、全人類の問いを荷負って立つという厳粛な意味をもつわけでありましょう。 それを聖人は、

弥陀の五効思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり(真宗聖典640頁『歎異抄』後序)

と、仰せられていたと伝えられております。ここに人生の根本問題が自己一人に荷負されており、それは聖人の教えを覚えたり知ったりすることによってのみ、成り立つものではないのであります。

それは、教えを食べ味わうことにおいて生命の活力となるのでありますから、その意味では、正信偈をよみうたう我々同行は食べ味わっているのであり、そのは背景は遠く釈尊以来連綿と伝承された仏道の歴史に裏づけられているのであります。

この意義を聖人は「如来大悲の恩徳」と仰がれ、その恩徳を仰ぐ道理を私どもは聖人から賜ったのであります。だからこそ、報恩講として大切にしているのであります。

032報恩講

花山孝介

報恩講は、私たち真宗門徒にとって一番大事な仏事ですが、一体、私たちが報恩講を勤めることのもつ意味とは何なのでしょうか。

私たちは、過去を振り返りながらいつも未来に希望をもって生きようとしています。しかし、今日の社会は、不況・就職難・リストラ等の身近な問題から環境破壊・遺伝子操作の問題、更には、新たなる戦争へと向かう国際社会の在り方、そこでは、何一つ問題が解決されないまま、より大きな事件が勃発している現実にあって、いつしか未来への夢や希望を抱くことができなくなっています。

かつて坂本九さんが歌った「明日があるさ」という曲が近年リバイバルされて大流行しました。曲名を見れば、明るく未来に向かって希望を抱かせる言葉ですが、今日の世情に照らすと、何となく悲しげな言葉に聞こえるのはなぜでしょうか。行き先の見えない未来に不安を抱いた心の裏返しのように、それはどうしようもない「今」を紛らわす嘆きの言葉にさえ聞こえ、そこに空しささえ感じるのは私だけでしょうか。

しかし、よくよく考えてみると、その空しさは、単に未来を悲観し絶望するだけではないのかもしれません。空しさを感じるその奥底には、実は「今」を大切に生きたいという願いの表れではないかと思います。

どのような出来事に遭遇しても、全ては無常の人生の一場面です。だからこそ、全ての出来事は同時に一度しかない出来事です。自分の意に添うか否かはありますが、それでもいのちの一瞬一瞬の大切な出来事です。

これからの人生、自分の思い通りの未来が来るか分かりません。その意味では、不安を払拭することはできません。しかし、それだからこそ光り輝くような「今」を大切に生きたいというのが、、私たちの深い願いであり、そのことを聞き開く所に、報恩講という仏事があります。