桑名別院人生講座(毎月第1日曜日、午前7時から8時まで、会費一回500円)のご講師が決定いたしました。日曜日の朝のひと時にご講師のお話を聞き、”生きるということ”を確かめなおしてみませんか。
みなさまお誘いあわせのうえ、ご参加ください。
栗田龍麿
今年の正月過ぎ、50才前後の女の人が相談があると言って訪ねてみえました。この女性は、東北出身で1年程前私たちの地区へ引っ越してきた方で、去年、東北地方に住む母親と妹が相次いでで亡くなったそうです。
それで妹さんの看病に行った際、なぜこんなに不幸が続くのかと、占い師の所に行ったところ、占い師から「水子の霊がたたっている」と言われたそうです。この女性は若い時に流産しており「本当にそんなことがあるのですか」と相談にみえたのです。
それでいろいろ話し合ったのですが、私が「あなたは子どもや親に悪いことがあるように思ったことはありますか」と尋ねたところ「そんなことはありません」という返事でした。「それならこの世に生まれなかった子どもも、あなたとは親子の関係であり、親の不幸を願っていることはないのでは」と話したところ「ああそうですね」と納得して帰られました。
私たちは日常生活の中でいろいろな問題にぶつかります。それを背負いきれないため原因を外へ外へと求めていくことによって、ますます苦しみの中へ入っていくのではないでしょうか。いろいろなことが起こって、うろうろするその自分を法に問うのが聞法です。
安田理深先生は、信仰とはすべてのことを背負える肩を与えられることだと教えておられます。
長崎慶麿
親鸞聖人が書かれた『高僧和讃』の中に「濁世(じょくせ)の起悪造罪(きあくぞうざい)は 暴風駛雨(ぼうふうしう)にことならず 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり」という和讃がございます。(真宗聖典494頁)五濁悪世の衆生が、互いに自分の考えを正当化し、他人を非難して、他の立場に耳を傾けようとしない。そのことによって、人間不信に陥り自分中心にしか生きられなくなってしまう。人々は不健康になり、人として生きる喜びがもてなくなって本当は幸せを求めているのに、かえって不幸の因ばかりつくっているような、そういう我々の生活は、暴風駛雨の如くであると。暴風は台風のこと、駛雨は俄雨のこと。その暴風駛雨ということと我々の生活と全く同じことだといわれるのです。
同じ事柄であっても、我々の根性は、機嫌のいい時には素直に聞き入れることができるが、機嫌の悪い時は素直に聞き入れることができない。例えば、今まであんな善い人はいない、本当に信頼することができる人だと言っていたのに、ちょっとしたことから、その人を疑ったり憎んだり、陥れようとしたりします。本当に我々人間の根性はお天気のようなもので、何時どうなるか分からない。まさに「俄雨の如し」ではないでしょうか。
今日、イラクへの支援問題・北朝鮮の拉致問題・その他の諸問題も、国の為、人の為という美辞麗句を並べ立てて、対処しようと努力しているようですが、その中身というと、国対国、人対人との思惑がからみ、虚々実々の駆け引きの中で、自国を、自分を善しとする私心でもって対処していることも、暴風駛雨に異なることがないと、諸仏は見抜いておられるのです。そういう哀れな生き方しかできない我々のあり方を「お前らよ、本当にそれでいいのか」「どうか本当のことに出遇ってくれよ、お念仏申せよ」と叫び続けてくださっておられるのが、このご和讃ではないでしょうか。
北畠知量
往生とは、往って生まれると書きます。もちろん、それは浄土に往って新たな人間として生まれるということです。けれども、そのことが具体的にどういうことを指すのかは、今日ではきわめて分かりにくくなっていますね。
浄土真宗でいうところの往生とは、今ふうに言えば、「自我の世界」から「自我に執着しなくてもよい世界」に往って生まれるということになるでしょうね。
私たちには「自我」というものがあります。私たちは表によそ行きの面を着け、内では様々な計算をめぐらし、生き甲斐なるものを求めてがんばって生きています。その生き甲斐の中身をよくよく考えてみると、要するに、元気で長生きして威張りたいということに尽きるようです。
親しい人が亡くなると、悲しいけれども元気で生きていることを密かに喜ぶ自分がいます。つましく暮らしている人を見ると、「そこまで倹約しなくてもいいではないか」と思い、自分の何気ない贅沢にかすかな優越感を感じます。「人さまに喜んでもらえたらそれでいい」というボランティアでも「何もしない人よりはましだ」と威張っているものです。それが私たちの自我の姿なのです。
往生とは、そんな自我の生き方に執着せず、そんな生きざま全体を笑って見ておられるような心の世界に往くということなのです。私たちは、心の底から響いてくるいのちの声に耳を傾けながら、浄土往生を願うべきであります。そして生きているうちに、一度は浄土に往生すべきであります。自力を棄てれば、往生は決して難しいことではありません。
藤井慈等
親鸞聖人の書かれた『教行信証』の「信の巻」に、『涅槃(ねはん)経』という経典の言葉が引かれています。それは「慙愧(ざんぎ)あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」(真宗聖典258頁)という言葉であります。
慙(ざん)も愧(き)も「羞(は)じる」という意味ですから、慙愧というのは「頭が下がる」ことだと教えられています。つまり頭が下がるところに、人と人との本当の繋がり、出遇いが生まれることであります。
私は今、一週間ごとに、昨年暮れに亡くなったあるおばあさんの中陰のお逮夜にお参りしております。実はそこで、この「慙愧」という言葉を紹介したのです。そうしますと、それを聞いておられたおばあさんの息子の一人が、こんな話をしてくれました。多分、お葬式が終わった後のことでしょうが「おばあさんもこれで楽になったんじゃないか」と、夫婦で話をしていたそうです。ところが、それを聞いていた子ども、おばあさんの孫が、「あんたら、何ということを言うとるんや!」と、泣いて怒って抗議したというのです。そこで、このおばあさんの息子は「子どもの一声で親のほうが教えられました」と、語ってくれました。
私はそれを聞きながら「あんたら、何ということを言うとるんや」という孫の言葉が「楽になった」ということと、その人の一生涯をどう受け止めるかということとは、問題の相が違うということを照らし出す「いのちの叫び」に聞こえました。実際、その人になってみなければ分からない、一人ひとりの重い人生を生きています。ところが、その生涯に頭が下がるというよりは、いろいろと評価し、意味づけ、それによってむしろ自らを無罪放免にする、限りない自己否定が覗いてくるのです。
いくらかの人生経験や聞法経験を答えとして、そこに腰を下ろしている私たちの小賢しさを「あんたら、何ということを言うとるんや」と一喝する、そんな仏さまからのお年玉をいただいたように思いました。
田代俊孝
「南無というは帰命なり、またこれ発願回向(ほつがんえこう)の義なり」(真宗聖典840頁)
蓮如上人の『御文(おふみ)』に再々引かれる善導大師のお言葉です。理屈ではともかく、この言葉の意味こそが私には長らく頷けませんでした。なぜ、南無が発願回向なのでしょう。
ある時、大学へ行っているわが子たちの振る舞いを見ていてふと感じました。毎月の仕送り以外にも、あれこれとお金をねだるこの子たちは、親をどう思っているのだろうか。親は子を育てて大学へやるのは、当たり前だと思っているのではないだろうかと。親は子に奉仕するものと思っているのではないだろうかと。
思えば、この私も学生時代にそう思っていました。この歳になってようやく、親の願いに気づいて頭が下がります。田舎の小さい寺の住職をしていた父が、どうして男三兄弟を大学まで行かせることができたのでしょうか。今、自分が子を持ってようやく親の願いが受け止められました。
仏の願いもまた同じことかもしれません。南無とは梵語のナマズで、インドの人は、今でもナマステと手を合わせてお礼をします。中国の言葉ではそれを帰命と訳します。帰命とは「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」との意味です。仰ぐべきものに出会った時に、自ずと頭が下がるのです。私たちは自分の力で生きているんだと力んでいます。その私の自我が砕かれ、絶対無限の妙用(みょうゆう)に生かされ、支えられていると気づかされた時、つまりその大いなる願いに気づかされた時、南無と頭が下がってくるのでしょう。
南無とは、まさしく法蔵菩薩の発願された願いが回向されてきた姿だったのです。もちろん、そこに報恩の情も湧いてくるのです。