025『碑(いしぶみ)』より

佐々木達宣

1学期ももうすぐ終わろうとしていた頃、中1になる娘のいる部屋から、朗読の声が聞こえてきました。それは、1年生の国語の教科書に載っていた『碑』という題名の文章で、広島テレビの制作によるドキュメンタリーのシナリオでした。

昭和20年8月6日、朝、広島二中の1年生322人と4人の引率の先生は、建物疎開の作業のため、市内中島新町の本川土手に集合していました。そして、午前8時15分、原子爆弾が投下され、全員が亡くなったのです。そして、その半数近くは遺体を見つけることもできませんでした。その朗読が終わった後、それを聞いていた私も家内も、そして、読んでいた娘もしばらく口を開くことができませんでした。

今年も8月6日、広島において平和記念式典が行われましたが、今年は先のイラク戦争や北朝鮮の核開発問題など、不安定な世界情勢を通して、我々に平和というものの概念を、改めて問うた年でなかったかと思われます。それは、私たちが抱く平和に対する概念が、いかにあやふやなものであったかを露呈した形となったのです。私たちが求める平和とは、本来は恒久的なものであり、崇高な目的でなければならなかったはずが、いつの間にか、我々人類は一時的な、そして、政略的な平和を求めるようになったのです。つまり平和とは、単に戦争をしていない状態に過ぎず、力の均衡という、その危ういバランスが崩れた時は、再び戦時に戻ることを我々にまざまざと見せつけました。そして、戦争の常として、弱者が犠牲になるという現実も繰り返されたのです。

『仏説無量寿経』の中に、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てまいります。仏教の広まっていくところには、軍隊も兵器も必要でないということですが、現実社会に重ねて考えた場合、先に述べた、政略や力を背景とした、その場しのぎ的な平和維持とは、ずいぶん次元の違う意味合いとなっていきます。しかし、争いの原因は人間の心の問題にあるのです。お互いの宗教や国家、人種を尊重し尊敬することができたなら、争いは起こるでしょうか。しかし、認めることができない、許すことができない私たちなのです。こういう私たちの在り方こそが「兵戈」なのです。そして、その自覚を促す願いが南無阿弥陀仏なのです。

広島の平和記念式典も今年で58回を数えました。その間、繰り返された人々の願いも、現状を見る限りまだまだ世界には届いていないようです。改めて、何をもって平和とするかを考えることが必要ではないでしょうか。