022夕顔

大谷 聡

昨年の種が落ちて、庭に朝顔がたくさん生えました。だいぶ遅れて夕顔も生えました。朝顔は真っ赤なもの、しぼりになったもの、青いものと朝早くたくさんの花が咲きました。遅れて夕顔も咲き出します。夕顔は夕方に白い花を咲かせます。夕顔は来る日も来る日も白ばかりです。皆さんのお家のお庭でもそうでしょうか。ふと私は、夕顔も赤や青に咲きたいことがあるのだろうかと思いました。

人間だったらどうでしょう。ルーズソックスやピアスが流行れば、それを身につけ、茶髪が流行れば、誰しもが茶髪にします。初めは批判していた人も見慣れるともう何も言わなくなり、それどころかそれが普通になり、ともすれば染めていない人に対して、「ダサイ」とか、「遅れている」とか言う人の方が多くなります。それが世俗の現実ではないでしょうか。

あるいは、我々の日暮には、人が人とも見えなくなる様な、醜い事件や有様が氾濫してはいないでしょうか。しかもそのことを、自らの都合の内に自らを正当化してはいないでしょうか。それが、あの純白の夕顔に対してでさえ白い花を黒い色に変えてしまいかねない現実なのではないか。

釈尊は『阿弥陀経』の中で、極楽浄土の有様を説かれた中に、「池中蓮華(ちちゅれんげ)、大きな車輪の如し、しかも青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃっこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃっこう)ありて、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり」とあります。(真宗聖典126頁)

それぞれの花の色の個性美、輝きながら独立して花咲く自尊の生活を説かれています。そう、夕顔は決して赤くなんか咲きたがっていないのです。

世俗の動きに振り回されている私、流行に振り回されている私、ささいな人の言葉に右往左往している私です。その私自身の姿を『阿弥陀経』のこの言葉に照らしてみると、自らの取るべき態度・進むべき道が、自ら開けてくるのではないでしょうか。