渡邊浩昌
「東洋の人は、すべて何事を考えるにしても、生活そのものから離れぬようにしている。生活そのものに役立たぬ物事には、大した関心を持たぬのである」と鈴木大拙氏は語っていますが、その「生活」というのは「物質的生活」ではなく、いわば「精神生活」のことで、その精神生活に役立つものを東洋人は大切にするということです。
例えば、「床の間にかけるものも、ただ美的鑑賞のためでなく、何か有限以上のものを見たいという要求から来ている。だからその為にも香を焚いたり、心を静めたりして敬虔な態度をとるのである」と言っています。それはお茶をたてることでも、お花を立てることでも同じで、あらゆる日常の生活の場でそのことを確保しようとしてきたということでしょう。
しかし、近代に入り、怒涛の如く押し寄せて来る西洋文明の波の中で、そのような精神生活の場が失われていきました。そのただ中にあって、清澤満之先生は精神生活の回復を叫ばれました。そして先生はその根拠を仏教に、更に親鸞聖人の教えに求められました。それは又、中世に於ける共同体への埋没から解放された個の回復でもあり、近代に於ける「自我意識」からの解放でもありました。そのことは「自己とは何ぞや」の一点に凝縮されていると思われます。
現代人は、「豊かさの源泉に注意を払わない」「権利だけあると考え義務を考えない」「際限のない要求を社会につきつける」という、三点の特性を持った人間になってしまっていると言われます。このような現代にあって、単なる自己反省でない、教法、道理に基づく自己省察のみが現代の危機を乗り越える道ではないかと思われます。清澤先生はそれを「内観主義」と名づけられ、又「精神主義」とも名づけられたのであります。