渡辺勝美
過日、知人から姉の家に不都合が起こるのは、実家の墓相が悪いからだと、だから直してほしいと週末毎に家に来る。そんなことで不都合が起こるとは思わないけれども、話は一方的でこちらの話は通じないし、憂鬱である、どうしたら良いだろうかと、相談を受けました。
みなさまはどう思いますか。
私にも同じような経験があります。以前、母に「どうかく」とかいうできものが腰の所にできて、大きく腫れあがり、痛そうでした。医者に行くように言ったのですが、どこで聞いてきたのか知りませんが「矢合観音の井戸水をつけると治るから行きなさい」と勧められたと言って聞きませんでした。「治るはずがない」と言っても納得しません。結局、その水をつけても痛みは引かなかったのでしょう。病院で治療を受けて治りましたが、こういう時、なかなか聞く耳を持たないのが私たちではないでしょうか。
相談を受けた知人は、真宗のご門徒であると言われるので、お姉さんが見えたら「家の不都合が墓相と関係があるかどうか、私は分からないので、住職さんに一緒に聞かしてもらいましょう」と貴方が誘って、お寺へ行ってくださいとお勧めしました。後日、報告を受けましたが、住職様は丁寧に話してくださったそうで、その後はその話で来られることはなくなったそうです。
こんなことは日常的なことのように思うのですが、如何ですか。例えば病院での「四」「九」という数字を嫌ったり、退院、結婚、納車、葬式等の日を選ぶように、真実の根拠を尋ねることなく、そのことにとらわれ、迷ってしまう私があるのでしょう。しかし、よく考えてみると、迷いは外にあるのではなく、外に起こった出来事を縁として、惑う私にあるようです。些細なことに執われ、迷う私自身を自覚させられるに、仏法に出遇い、目覚めるということがあるのではないでしょうか。改めて、惑う私に気づくご縁でもありました。