027お仏供(ぶく)さん

三枝明史

みなさんは毎日お内仏に仏飯をお供えされていますか?

ご存知のように、お仏飯は正しくはお仏供といいます。このお仏供さんの扱いについて、よく次のようなお尋ねを受けます。

「お仏供さんはお供えしなければいけないものなのですか?」

「お寺さんが来られる日にだけ供えることにしてはいけませんか?」

「お供えする数を減らしてはいけませんか?」

「なぜですか?」とこちらが逆に問いかけますと、決まって「わが家では毎日ご飯を炊きませんから」とお答えになります。あるいは、もっと正直に「冷えて硬くなったご飯は誰も食べない」とか「とても毎日続けられない」と言われる方もいらっしゃいます。

「それぞれの家庭の事情の中で、お仏供さんあり方を考えていただければ結構なのです」とお答えしながらも、いつも何か割り切れないものを感じています。

それは質問をされる方のお内仏に対する向かい方(姿勢)です。言葉の中に「仏さんやご先祖には申し訳ないけれど…」というような一言が含まれていないのです。つまり、言外で一貫して主張されていることは自分たちの都合なのでしょう。

本来、ご本尊(尊い存在)として、どこまでも仰いでいくべき仏様が、人間と対等に、いや人間よりも低い位置に置かれてはいませんか。人間の側の頭の高さ、視線の高さが感じられて仕方がないのです。

「お給仕」という言葉が示しているように、お内仏は私たち人間がお仕えすべきものです。日々お仕えすることを通して、仏の教えを身近に学び、「生かされている」自分を確認していくべきものでしょう。

みなさんにお尋ねいたします。

「お給仕」がいつの間にか「お世話」になってしまっていませんか?

「お供えすること」が「与えること」に変わってはいませんか?