佐々木達宜
先日、車の中でラジオを聞いておりますと、ある養護学校の校長先生のお話を紹介しておりました。少し前のことですので、学校や先生のお名前を失念してしまい、話も若干はずれておるかもしれませんが、要約するとこういうお話でした。
校長先生というのは、たいがい校長室にデンと構えておられることが多い訳なんですが、それじゃ生徒との距離が縮まらない。そこでその先生は校長室を生徒たちに開放したんですね。最初は様子を窺っておった子供たちも、慣れてくると自由に校長室に出入りするようになり、やがては先生の頭を撫でまわしたり、ペタペタと叩いたりし始める。というのもその校長先生、頭が見事に禿げておられたそうなんです。そこで先生が一言、こうおっしゃったそうです。
「あゝ、禿げててよかった」
実は私も、てっぺんの方がだいぶ危うい状態になっておるんですが、コンプレックスを感じることはあっても、よかったと思ったことなど一度もない。主人公が自分である限り、こういった発想はできないんですね。
ここでは主人公は子どもたちであり、校長先生はその子どもたちから智慧を授かっているのでしょう。
仏教ではこうした意識の転換がとても大切なのです。そして仏法をいただくことによって、私たちの日常における自己中心の価値観や生活が大きく逆転されていくのです。
みなさんは朝に夕に、お仏壇の前で手を合わせておられることと思います。ここでは、もちろん主人公は阿弥陀様であるわけですが、私たちの自己中心の価値観から、阿弥陀様を中心とした新しい世界観に逆転されていく場がお仏壇なのです。私の前に阿弥陀様があるのではなく、阿弥陀様の御前に私が座っているとの、意識の転換が促されておるのです。それはもっと言うならば、我々が仏様を供養するのではなく、我々が仏様に供養されておるのだ、ということでもあるのです。
お盆が近づいてまいりました。報恩の心でお仏壇に向かいたいものです。供養される私として、精一杯報恩の心でお仏壇に向かわせていただきたいと思います。