藤井信
私のところの寺が修復工事を行っていた、ある日のことです。工事に携わってみえた、まだ若い方が休みの日に突然訪ねてきました。ちょっと話があるというので家にあがってもらったのですが、こんな話なのです。「実は、数日前からどうも身体の調子が悪いのですが、でもまぁ大丈夫だろうと思って仕事を続けていたんです。そしたら見てください。この顔」見ると、その人の顔の半分が麻痺しているようでした。「こんな風に突然、顔の半分が麻痺したんです」他の人から「おまえ、何か罰が当たるようなことしたんやないか」と言われました。「何か身に覚えがあるんですか」と私が言いましたら、その方は「何もした覚えはありません。でも知らず知らずのうちに何か罰があたるようなことをしたのかもしれません」と言います。「悪いと思ってもしてしまうことがあるのに、あなたが言うように、知らず知らずのうちにする悪いことなんて私たちはどれだけやっているか分かったもんではありませんよ。それに、その一つ一つに罰が当たっていたのでは私たちは生きていくことさえできないかも知れません」
これまで何人か同じような症状の人から菌が入ったりしたことが原因だったと聞いたりしていたので、そんな話をしたり、不安に思う気持ちについていろいろ話したことでした。私たちが普段、自分の行為に無関心ですが、何か自分に都合の悪いことが起きると、途端にとても気にしだし、それだけでなく原因を自分以外の他に求めるようです。そしてその不安を解消するためにあるのが宗教だと勘違いしているのではないでしょうか。しかしそのような心など、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」かのように、事態が好転すればすぐに忘れ去ってしまう都合のいい、その場しのぎの心なのです。私たちは、大なり小なり、何かに不安を抱きながら毎日を過ごしていると言えるかもしれません。しかし不安に思う気持ち、それこそが生きる上で重要な意味をもつのではないでしょうか。金子大栄氏の言葉に「生きるしるしの発見、それが宗教というものではないか」とあります。不安に思う気持ちを通して、生きるしるしを発見することこそが大事なことなのではないでしょうか。