梅田良惠
今受験生にとっては、最後の正念場を迎えている時期です。ある受験生のいる家にお参りに行った時のことです。大学受験を控えた女の子は試験を受ける前に、受験票をお内仏に供え、阿弥陀さまに掌を合わせたそうです。
その受験生は、なぜそんなことをしたのでしょうか。もちろん大学に合格したかったからです。でも、阿弥陀さまにお願いすれば合格できると思っていたのでしょうか。実際、その子はよく勉強もしていました。ある程度受かるという気持ちもあったようです。しかし、それでも多少の不安があったのでしょう。
後日、その子は合格通知を手にしました。なぜ、合格できたのでしょう。阿弥陀さまにお願いしたおかげでしょうか。もし、不合格だったら、阿弥陀さまの力が足りなかったということでしょうか。「自力」と「他力」という言葉があります。自力は自分の力、他力は如来の本願力ということです。私たちは困難に直面し、また自分ではどうしようもない時、自分の願いをかなえてくれる他からの力を「他力」と捉えることがあります。
真宗は如来の本願力の教えであって、他力によって私たちの願いが何でもかなうということではありません。他力を信じれば、希望する学校に合格できるということではないのです。合格であろうが不合格であろうが、一旦預けた命を他力によって生かさせていただくということです。合格したのも事実、不合格だったのも事実。その全ての事実を都合の善し悪しで決めつけている自己中心的なあり方に気づかされることが、他力を憑(たの)めたということでしょう。
困ったとき、思わず掌を合わせるということがあります。でも、そのときに今一度考えてみてください。欲望をかなえるために掌を合わせているのか、結果がどうあろうとお任せして掌を合わせているのかと。