和田 惠
仏法は、事実を事実として正しく見つめ、受け止めることから出発しますが、最愛の家族の死ほど、受け止めがたい事実は他にないのではないかと思います。必死で悲しみをこらえておられるご家族の方にお会いすると、どんな言葉も慰めにならず、かける言葉を失います。
親鸞聖人も「かなしみにかなしみをそうるようには、ゆめゆめとぶらうべからず」と言われたと『口伝鈔』(真宗聖典672頁)に述べられていますが、本当に人情の機微にあふれたお言葉であると思います。
お葬式のことを「おとむらい」ともいいますがそれは訪問の「訪」という字を書いて「とぶらう」とよんだことから変化した言葉だそうです。その言葉どおりに、村の人が亡くなると、みんながその家を訪れ、悲しみを共にしながら「我もまた死すべき身を生きている」ことを実感し、己の生き方を見つめたものであります。このように、葬式は悲しいことでありますが、決して「忌みごと」ではなく、亡き人を偲び、わが命のあり方を真剣に考えるべき法要であります。
先日、ある女性が「主人が亡くなって、ようやく四十九日の法要も済ませましたが、いまだに悲しみが薄れず、何も手につきませんが」と言われたのに対し講師の方がこんなふうに心を込めて言われました。
「貴女が悲しみのあまり何も手につかないということも、一つの事実だと思います。どうぞ思いっきりご主人のことを思ってあげてください。でも、亡くなったご主人もまた貴女のことを思い、願いをかけておられると思いますよ。かけがえのないご主人の死は『貴女がこれから生きていくことに対してどういう意味があるのか』という問いかけを残してくださったことだと思いますよ。どうぞそのこともお考えください」
私は講師のこのお言葉を聞きながら、ご本山の参拝接待所に掲げられている「亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている」という言葉を思い起しておりました。