武井弥弘
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて、お正月は一年の節目です。正月一日のご挨拶に詣でた道徳に、蓮如上人は言われます。「道徳いくつになるぞ。道徳、念仏申さるべし」と。一年の節目に当たり、先ずお念仏を申すこと、「ただ念仏」ということを確認しなさい、ということでしょうか。
二ヵ月ほど前、あるお年寄りを車に乗せる機会がありました。するとそのお爺さんは、低い小さな声で「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と何度もお念仏されます。とても落ち着いたそのお念仏に、その方はどんな生活をしておられるのだろうかと尋ねてみました。すると「毎日婆さんと喧嘩ばかりしております。こればっかりはどうにも直りません」とにこやかに応えられました。いつもお念仏しているような人ならば、明るいほがらかな家庭生活がきっとあるに違いないという私の邪推はみごとに砕かれました。
私たちはついつい、お念仏を数多く申して、しかも一生懸命に称えていれば、きっと自分にとって良いことがあるに違いない、良い人間になれるに違いないと思ってしまいがちです。しかしそうではなくて、「ただ念仏」といわれるところには、数でもなく、呪文でもなく、南無阿弥陀仏というその六字が、仏道全体を表しているということをきちんと受け止めなさい、それが信心をいただくということですとおっしゃっていられるように思われます。
つまり、南無阿弥陀仏は必ず本願(誓願)が元になっており〈教〉、その本願が大行として(はた)らいている〈行〉、そしてその用らきによって私たちが呼び覚まされ〈信〉、如来の悟りの世界に往生することができる〈証〉という「教・行・信・証」というお心がすべて備わっているのだということでしょう。
しかし最近はお念仏を申す真宗門徒が少なくなったと言われます。
年頭に当たり、改めて「念仏申さるべし」というお叱りの声が聞こえてまいります。