023釈尊に学ぶ

石見孝道

お釈迦様は、今から2500年前に真理(仏法)に目覚めて仏陀(仏様)となられました。

元々「仏陀」という言葉には「真理に目覚めた人、そして真理に目覚めさせる教えを説く人」という意味があります。ですから、お釈迦様お一人が「さとった」ということだけで終わってしまうのならば、お釈迦様は「仏陀」とは言えません。お釈迦様の教えによって、他の人が「さとり」を得ることがあってこそ「仏陀」が誕生したと言えるでしょう。

お釈迦様は、実に8万4千の法門を説かれたと伝えられています。また、その説法は「対機説法」であったと言われます。「機」というのは「人」のことです。その人に対して法を説く、つまり、同じ一つのことを伝えるのにある人にはこう言うが、別に人には違う言い方をする。その人に対して、最も通じる教え方をされたということです。

人間は顔も違えば能力も違う、感じ方・考え方も違い、誰一人として同じ人間はいません。そのことをよくよく承知の上で、お釈迦様はお一人お一人に向き合っていかれたのです。それは「他の人もさとりを得て共に救われて欲しい」という大きな願いがあったからこそできたのでしょう。願いが本物ならば、どんな苦労も苦労にはならず、逆にその苦労がいよいよ自分を磨く尊いご縁となるでしょう。

さて、私たちはいったい何を願いとして生きているのでしょうか。案外、自分だけのちっぽけな願いを固く握っているのかもしれません。しかし、このことのためならと、自分を捨てることができるほどのものに出会うのならば、その人の人生は本当に生きたものとなるのでしょう。「生き甲斐」と「死に甲斐」は表裏一体です。そういうものに出会うことがなければ、人生はただ空しく過ぎただけで終わってしまいます。実に、お釈迦様は「完全燃焼できるほどの命を生きて欲しい」とこそ願っておられたのではないでしょうか。

またそれは、時代を超えて現代を生きる私たちにも通じる願いなのでしょう。人間は苦悩する存在です。苦悩するからこそ人間と言います。苦悩が無くなるのが救いではありません、苦悩を縁として我が身を知り、いよいよ大いなる願いに立ち返るのです。

終わることのない歩みをいただく、それが人間に生まれた意義ではないでしょうか。