藤井 信
先日、猫が車に轢かれたのでしょうか、道端で死んでいました。よくある光景と言えばそれまでですが、そのことで思い出したことがありました。
ある日の午後、お参りのため車を走らせていました。普段よく通る、あまり広くない道にさしかかった時、前方に車が連なって渋滞していました。この道で車が混んでいることなど今まで経験したことがありません。「何か工事でもやっているんだろうか?」約束の時間に遅れそうなので少しイライラしていましたが、車は一向に動き出す気配がありません。やがてやっと車が動き出し、なぜ道が混んでいたのかが分かりました。その原因となっている場所にさしかかると、二~三人の少年が立っていて、そのうちの一人が両手で鳥を大事そうに持っていました。見れば、鳥は怪我をしているようでした。おそらく、傷ついた鳥を保護しようとしてなかなかうまくいかず、そのために車が混んでいたのでしょう。少年たちは自分たちの行為を誇る様子もなく、ただ満足そうな顔をしていました。
世間では、よくいろんな動物たちが入れ替わり立ち替わりブームになっています。しかし、ブームという言葉が示すとおり、やがてその熱も冷めてしまうものなのです。しかも、そのことは当の動物が望んだものではなく、人間が勝手に無関心になるのですからいい迷惑でしょう。いかにも人間の身勝手さを示すものではないでしょうか。生き物のいのちそのものより自分たちの都合を大事にしているのではないでしょうか。
仏典童話に「いのちは誰のものか。それはいのちを傷つけようとする人のものではない。いのちを育もう、いたわろうとする人のものだ」とあります。私も「時間に遅れる、忙しい」などいろんな自己関心ばかりに心を奪われて、いのちそのものからの問いが聞こえなくなっていたようです。少年たちの飾らない満面の笑みに教えられたことでした。
渡邉 恵
ご門徒の家にお参りに伺った時に、こういうお尋ねがありました。「私の実家の母親の法名を、この家のお仏壇に入れてもよろしいですか」と。その時、私は、「それはよろしいんじゃないですか」と言いましたら、安心された様子でした。その理由をお聞きしますと、「実家の兄弟といろいろありまして、私が法名を引き取ったのですが、どのように扱えばよいものかと悩んでおりました。自分の気持ちとしては、この家のお仏壇に入れてあげたいと思ってはいましたが、周りから、よその家の法名を自分の家の仏壇に一緒にするのはよくないなどと、いろんな声を聞かされ悩んでおりましたのでお尋ねしました」と、このように言われました。
お仏壇に関してこのようなことはよく聞くことです。この場合のように、他家の法名を入れてはいけないと考えた時のお仏壇の中心は、ご先祖ということになると思います。ご先祖が中心のお仏壇であれば、当然他家の法名は入れることができない訳で、その家の先祖だけのものです。
そこで考えていただきたいことは、真宗のお仏壇の中心には、阿弥陀如来がご本尊として安置されているということです。しかし、そこにお参りしている人たちは、ご先祖が中心と思ってお参りしています。そうしますと、阿弥陀如来が中心に安置されておりながら、大事なことがどこかへ行ってしまった状態です。ここに、この問題の大切な点があると思います。
私たちがお参りをする時、どこに向かってお参りをしているのか。ご先祖が中心なのか、阿弥陀如来が中心なのか、何を中心にお参りをしているのかをはっきり確認することが、このご門徒さんが言われたことの問題を解くカギであるように思われたことです。
大谷 聡
昨年の種が落ちて、庭に朝顔がたくさん生えました。だいぶ遅れて夕顔も生えました。朝顔は真っ赤なもの、しぼりになったもの、青いものと朝早くたくさんの花が咲きました。遅れて夕顔も咲き出します。夕顔は夕方に白い花を咲かせます。夕顔は来る日も来る日も白ばかりです。皆さんのお家のお庭でもそうでしょうか。ふと私は、夕顔も赤や青に咲きたいことがあるのだろうかと思いました。
人間だったらどうでしょう。ルーズソックスやピアスが流行れば、それを身につけ、茶髪が流行れば、誰しもが茶髪にします。初めは批判していた人も見慣れるともう何も言わなくなり、それどころかそれが普通になり、ともすれば染めていない人に対して、「ダサイ」とか、「遅れている」とか言う人の方が多くなります。それが世俗の現実ではないでしょうか。
あるいは、我々の日暮には、人が人とも見えなくなる様な、醜い事件や有様が氾濫してはいないでしょうか。しかもそのことを、自らの都合の内に自らを正当化してはいないでしょうか。それが、あの純白の夕顔に対してでさえ白い花を黒い色に変えてしまいかねない現実なのではないか。
釈尊は『阿弥陀経』の中で、極楽浄土の有様を説かれた中に、「池中蓮華(ちちゅれんげ)、大きな車輪の如し、しかも青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃっこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃっこう)ありて、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり」とあります。(真宗聖典126頁)
それぞれの花の色の個性美、輝きながら独立して花咲く自尊の生活を説かれています。そう、夕顔は決して赤くなんか咲きたがっていないのです。
世俗の動きに振り回されている私、流行に振り回されている私、ささいな人の言葉に右往左往している私です。その私自身の姿を『阿弥陀経』のこの言葉に照らしてみると、自らの取るべき態度・進むべき道が、自ら開けてくるのではないでしょうか。
松下至道
朝やけ小やけだ 大漁だ。
大ばいわしの 大漁だ。
はまは祭りの ようだけど
海の中では 何万の
いわしのとむらい するだろう
「大漁」と銘うたれた、童謡詩人金子みすずさんの詩です。ご存知の方も多いでしょう。
大漁と喜ぶ人々の見えないところで、魚たちは弔いを出して悲しんでいる。
私たちのいのちを育むために、他のいのちがその犠牲となってくれているという現実を詩にしてくださっています。いのちに対する深いやさしさ、悲しみの眼を感じます。
私は毎日、多くの動物や植物をいただいています。その中でうまい、まずいを言い、食べ残すこともたびたびあります。私のいのちの糧となる為に料理される肉や魚・野菜に対して私は、金子さんのような眼で見たことはなかったなぁと思いました。
私のいのちは、他のいのちの上にしか成り立たないものです。自分の思いなど関係ないいのちが抱える現実なのです。「私のいのちなんだから私がどうしようと勝手」「私の思い通りにする為には他人のいのちを奪ってもかまわない、仕方がない」最近のテレビニュースを見ていると、そういう思いが画面から見えてきます。
しかし、いのちは私の思いの中にあるものではありません。思いを超えて私を生かしてくれているものが、いのちなのだと思います。他のいのちの上にしか成り立たぬ私のいのち。そこには大きな悲しみがあるのではないでしょうか。仏教では、仏さまの私見てくださる眼を「大悲」といいます。そこにはいのちのもつ大きな悲しみがあります。仏さまは、私のいのちとなって、生きとし生きるものとなって、私に対して「いのちの悲しみに触れ、そのいのちを感じて生きて欲しい」と、そういう願いを念仏となって叫び続けてくださっているのではないでしょうか。
人間が本当に自分や他人を大切にするためにはそういういのちの悲しみを感じ、念仏となって出てきてくださる仏さまの願いを聞き続けていくことが大切なのではないかと思います。
海老原章
ちょうど1ヶ月程前のことです。朝起きてみると、自分の右肩が痛く、時間が経過するにつれてその痛みが段々ひどくなり、日常生活をすることもままならなくなってきました。
翌日、その痛みに耐えがたく、整形外科の先生に診察してもらった所、結果は「肩の関節に石灰がたまり、それが原因で炎症を起こしている」ということでした。その場は、その関節にたまった石灰を溶かす注射を打ってもらい、痛み止めの薬をもらって帰宅しました。
その後、注射と痛め止めの薬の効果もあってか、痛みは徐々に消え、日を重ねるごとに右肩の調子もよくなっていきました。
病にかかっていた時は、私自身、その痛みや身体の不自由さを受け入れることができず、早く元に戻して欲しいと思うばかりでした。今にして思えば「早く元に戻して欲しい」という思いは、実は今まで何の不自由さも感じず、身体のどこかに痛みもなく、自分自身の思うように身体を動かせることが、何の疑いもなく当然のこと、当たり前のこととして考えていたということであったように思います。
その当たり前のこと、当然のことのように思っていた「自分の思いや計らい」とい自己主張を、これまで幾度となく繰り返してきたような気がしています。しかし、それがかえって自分自身というものを苦しめてきたのではないだろうかと思えてなりません。
この私に降りかかった突然の病によって、少しだけ「我が身」が照らし出されたような気がします。しかし、現在の私は、その時の痛みや身体の不自由さも忘れ、毎日を惰性のように無駄に過ごしているような気がしています。
藤井恵麿
私は、お線香に限らず、煙とか強い香りが苦手です。ですから、門徒さんの家などの法要の場で、たくさんのお線香に火を点けられたり、たくさんのお焼香をされたりする方がおられると、その香りが体中に残ってしまい、嫌な思いをします。そのような時、思わず「一体、お線香を焚く意味とは、お焼香の意味とは何なのか」と考えてしまします。
そのようなことを考えながら、香りを消すために家に帰ってきてから顔を洗っていた時です。「本当にしつこいなぁ」と思わずため息が出た時、気づかされました。実はこの香りには大切な意味があることを。
最初、お線香・お香は形がありそれが燃えて煙が出ます。ここまでは、われわれの目で見ることができます。香りには形がありませんが、しかし我々は、その香りからお線香・お香を思い浮かべるという意味においては、先に亡くなっていかれた人に対しても全く同じではないでしょうか。
先に亡くなっていかれた人に対する思いはいろいろあるでしょうが、一番大切なことは「念仏の教えに導かれ、人生を全うされた」ということではないでしょうか。だからこそ、真宗の儀式に則ったお葬式をし、それに伴い法事を勤めさせていただくのではないでしょうか。そのことを改めて確認させていただくことが、法事においても大切なことではないのでしょうか。
ですから、お焼香の時、合掌していただくのは、香りを通して、念仏の教えに導かれ、人生を全うされたその人の生き方を深々といただくことではないかと思います。金子大栄先生の「花びらは散っても花は散らない、人は去っても面影は去らない」という言葉が静かに胸に響いて参ります。
伊藤英信
今月は清澤満之先生についてお話をすすめております。
そろそろ夏の虫の声が聞こえてまいります。蝉やキリギリスの声は、時に心を癒してくれます。また時には、「よく聞こえますか」と私の耳の働きを確かめてくれているようです。梅雨は大地を潤し、さまざまな生命の糧を育んでくれます。空気も日光も、木々の緑も、そして虫の音色までもが、私の存在にとって何一つ欠かせないものであることを、つい忘れてしまいがちです。
自然をも支配下に治めたような錯覚に陥って生きている現代人に対して、清澤満之先生は、自分がこの世に存在する根拠を「絶対無限の妙用(みょうゆう)」「一大不可思議の妙用」「他力の妙用」と表現せられました。自分の思いや計らいに先立って、さまざまな人々や物との深い結びつきのまっただ中に、自分を生かしてくださるはたらきを「妙用」といわれるのです。
「絶対無限の妙用」とは、無量寿、無量光たる阿弥陀仏のはたらきであります。私たちは、清澤満之先生のお言葉を通して、日々の生活が何を拠り所として生きているのか、まさに自己の立脚地を問われているのであります。
NHKテレビに「不思議大自然」という番組があります。さまざまな地球上の動物の不思議な生態をとり上げ、それを知識として理解しようとするのでしょうが、不思議とは本来、人間の思慮や分別が至らない働きであり、私もまたその妙用に生かされていることを決して忘れてはならないと、先生は私たちに問いかけていてくださるのです。
渡邊浩昌
「東洋の人は、すべて何事を考えるにしても、生活そのものから離れぬようにしている。生活そのものに役立たぬ物事には、大した関心を持たぬのである」と鈴木大拙氏は語っていますが、その「生活」というのは「物質的生活」ではなく、いわば「精神生活」のことで、その精神生活に役立つものを東洋人は大切にするということです。
例えば、「床の間にかけるものも、ただ美的鑑賞のためでなく、何か有限以上のものを見たいという要求から来ている。だからその為にも香を焚いたり、心を静めたりして敬虔な態度をとるのである」と言っています。それはお茶をたてることでも、お花を立てることでも同じで、あらゆる日常の生活の場でそのことを確保しようとしてきたということでしょう。
しかし、近代に入り、怒涛の如く押し寄せて来る西洋文明の波の中で、そのような精神生活の場が失われていきました。そのただ中にあって、清澤満之先生は精神生活の回復を叫ばれました。そして先生はその根拠を仏教に、更に親鸞聖人の教えに求められました。それは又、中世に於ける共同体への埋没から解放された個の回復でもあり、近代に於ける「自我意識」からの解放でもありました。そのことは「自己とは何ぞや」の一点に凝縮されていると思われます。
現代人は、「豊かさの源泉に注意を払わない」「権利だけあると考え義務を考えない」「際限のない要求を社会につきつける」という、三点の特性を持った人間になってしまっていると言われます。このような現代にあって、単なる自己反省でない、教法、道理に基づく自己省察のみが現代の危機を乗り越える道ではないかと思われます。清澤先生はそれを「内観主義」と名づけられ、又「精神主義」とも名づけられたのであります。
王來王家眞也
1903年6月、41才で世を去られた清澤満之師、ちょうど百年後の今、私が師にふれることができましたのは、師の面受の御弟子であります曽我量深先生によってであります。
先生は師の七回忌に際し、次のように述べておられます。
今やわが清澤先生の御前に「自己を弁護せざる人」となる称号を捧げんと欲する。この称号を想う時、われは忽ち六百年前の人とならねばならぬ。わが知れる所を以てすれば、親鸞聖人は自己を弁護せざる最大の人である。
これによって、清澤満之師こそ親鸞聖人の開顕された仏道、浄土真宗を生きられた方であることを知ることができます。
私共が仏道を習い学ぼうとする動機は、「自己と何ぞや。これ人生の根本問題なり」という清澤満之師のお言葉が出発点となりますが、その仏道を師は、「絶対他力の大道」と名づけられた文章として残しておられます。
私どもは他と代用不可能な生命、境遇を与えられており、その唯一の自己は弁護する必要のない世界が与えられていることを、師は百年を経た私をして知らしめ、それは、また、七百年以上前の親鸞聖人であったのだと教えられていることに深い感慨を覚えるのであります。
木村大乘
「いくら仏法を聞かせていただいても、うなずけないのは、何故でしょうか?」
これは、今から7年程前、長年聞法をしてこられたMという60歳半ばの女性の方が、Oというよく聴聞された男性の方に尋ねられた問いです。
私自身、そのときこの方と同じように、いままで聞かせていただいた仏法の言葉も、触れた感覚も全て化石のように、何の生きる力にも意欲にも成って来ない、悶々とした日々を持て余していた時でした。それ故、私に代わって尋ねてくださっていると思って聞かせていただいたのであります。
この問いに対して、Oさんは「それはあなたが邪魔しているのです」と即答されたのです。「何が邪魔しているのですか?」と新たに問うMさんに、「それが邪魔しているのです」と。「それとは何ですか?」「それが邪魔しているのです」「では、どうしたらいいのですか?」「それが邪魔しているのです」・・・。何を問うても「それが邪魔しているのです」と、10回程その問答が続いた時でした。「仏法を分かろうとする私自身の全体が根底から邪魔していたのだ」と、照らされるように聞こえてきたのであります。その時、私の思いや、考えを超えて、既に如来のはかり知れない尊いいのちのなかに、絶対満足しているこの身がそこに在ったのです。そしてまた、そこにおられるすべての人も如来の大悲の中に満足してみえたのです。
それは一瞬、感知された身の事実に賜っている本来の世界であり、彼岸の世界でありましょう。
安田理深先生はそのことを、「既に夜は明けているのに、わざわざ雨戸を閉めて、ロウソクを探しているのです」と名言されておられるのであります。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。