平野法祐
自力で生きているということは、自分が生きている、俺がやっている、俺が食べている、念仏も俺が称えているというように、何でも「俺が」が付いてしか、我々は意識を起こせない。その「俺が」という思いを破られるのが「無碍(むげ)の光明(こうみょう)」であろう。しかし、その「無碍の光明」に触れることはそんなに容易なことではない。
「俺が」という以前に我々は生きている。だからこそ「俺が」と言えるのではないかと自問自答していたところ、3才の外孫が、母親と2人で夕方遊びに来た。今までもお兄ちゃんや、母親とは何度も泊まっていったことがあるので、「今夜独りで泊まっていくか」と言ったところ、やや沈黙があって、朝になったら死んでいるとか何とか訳の判らないことを言う。それで、さらに詳しく尋ねると、「寝ている時は死んでいて、朝になると母親が生き返らせてくれている」と思っていたらしい。その辺りが子どもながらも、どうも不安だったようだ。
こんな3才の子どもでも、いのちに対する無意識の感覚を持っていることに驚き、寝ている時でも、ちゃんと仏さんは息ができるようにしてくれているのだよ。「仏さん、ありがとうと言わねば」と教えたところ、「そうなんや」と納得したように「仏さん、ありがとう」と、うれしそうに言った。
この時、「俺が」を離れた「いのちの感覚」との出会いをいただいた。いのちそのものは両親から生まれているけれども、「誰がくれた」とは到底いえないものです。このいのちのご縁に出会うということは、まことに不思議としかいいようがない。
いのちは自分以外のものと自分を、はっきりと見分けていく力をもっている。これも不思議な働きだ。そして、「自分とは何か」ということを、いのち自身はどこかで判っているようでもある。だから「俺が」というのは、いのちの後からついてきた人間の妄念ということがよく判る。
『親鸞聖人血脈文集』に「自力(じりき)と申すことは、行者(ぎょうじゃ)のおのおのの縁(えん)にしたがいて、余(よ)の仏号(ぶつごう)を称念(しょうねん)し、余(よ)の善根(ぜんごん)を修行(しゅぎょう)して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身(しん)・口(く)・意(い)のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御(おん)ちかいの中に選択摂取(せんじゃくせっしゅ)したまえる第十八願の念仏往生の本願を信楽(しんぎょう)するを、他力と申すなり」(真宗聖典594頁)とあり、また『恵信尼消息』には「風邪(かざ)心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、…臥して二日と申すより『大経』を読むことひまもなし。…名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして…人の執心、自力の心(しん)は、よくよく思案あるべし…」(真宗聖典619頁)とあり、親鸞聖人が自力の執心が如何に強いかを表白されている。
「俺が」の意識は何処からきたのか、何故だかよく判らないが真(ほんとう)の意味で、この自我に気づいていくことが「無碍の光明」に触れる根ではないかと思う。
檉豐
毎日、生活している私のいのちは、如何なる存在者として受けとめることができるかは大切な課題であります。
生きている私のいのちは、どのようないのちなのでありましょうか。いのちそのものに出遇っていかれました方が、私たちが宗祖として敬う親鸞聖人であります。
親鸞聖人90年の生涯は、9才で出家して比叡山に20年間籠もられ、並々ならぬ厳しい修行を果たし、勉学を究められ、いのちそのものの根元を追求し続けられた歩みであります。その歩みは、我が身一人に与えられたいのちが、一人のいのちを超えて、生きとし生ける全存在のいのちの輝きであったという名告(なの)りが『教行信証・化身土巻』において、「雑行を棄てて本願に帰す」(真宗聖典399頁)という言葉であります。本当のいのちに出遇い得たよろこびの叫びは、全てのいのちへの呼びかけとなっています。
しかし、雑行とは日常生活そのものですので、自分自身の力では棄てることは全く不可能であります。その場所を棄てて本願に帰すと名告ることは、自分自身のすべての存在が拠り処を否定される言葉であります。今、この現実の生活が、拠り処を求める場ではなく、虚仮不実(こけふじつ)を生きる存在者として自覚されてくる言葉が本願に帰すと名告ることであります。本願とは、仏に出遇うことであり、仏の呼びかけによって、雑行に生きているあからさまな自分のいのちに出遇うことなのであります。
『歎異抄・後序』に「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(真宗聖典640頁)とおおせられた、聖人の教えの精神によくよく聴聞していく歩みが大切であります。
内山智廣
最近、テレビのニュースや新聞の記事で「幼児虐待」あるいは「児童虐待」という言葉を毎日のように目にします。自称子ども好きの私は「どうしてそんなことをするのだろうか?」と、いつも腹立たしく思えてなりません。しかし、腹立たしく思いながらいつもあるできごとが思い出されます。
それは、私がある知り合いの子どもさんと遊んでいた時のことでした。よく一緒に遊んでもらっている子どもさんで、私にとって大切な友達の一人だと思っています。その子どもさんに、私の間違いを指摘されたのです。その時、私は少しムッとしてしまいました。
なぜムッとしてしまったのだろうかと、後で考えたのですが、私が「子ども」という存在を「未完成な人、自分よりも劣る存在」と思っている部分があるからだということに気づかされました。そしてこうした思い、考え方の延長線上には、虐待をしてもおかしくない自分の姿がありました。
親鸞聖人は『歎異抄』の中で「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(真宗聖典634頁)と言っておられます。つまり、人は自分の思いで自分の思う善いことをし、自分の思う悪いことをしてしまうのではなく、あくまでもご縁によるのだと。逆に言えば、ご縁さえあればどんなことをもしてしまう身であるということです。
私も子どもが好きで、虐待が間違った行為だと知っていて、そして何より、自分の思う正義感から、子どもに暴力をふるったりしないのだと思っていました。しかし、本当は自分の力で虐待をしないのではなく、たまたま虐待をせずにいられた、そうしたご縁がなかっただけなのだということです。改めてニュースや、新聞で見る「幼児虐待」「児童虐待」という問題が、私の問題であったと気づかせていただきました。
加藤滿
先日一番下の娘を連れて東山動物園に行ってきました。今までいろいろな動物園に行ったことでありますが、その中でも一番広いと感じました。
その動物園の中にはいくつもの案内地図がありました。その地図には、必ず「現在位置」と赤く印されていて、「今、自分のいる場所はここですよ」というように、分かるようになっています。
それは目的の場所に行くには今自分のいる場所はここで、どの道を通っていけば自分の目的の場所に着くかがわかるようになっている。当たり前のことですが、目的の場所が分かっても、自分のいる場所が分からなければ道順は分からないのです。
ですから地図というのは、ある意味で私の歩む道を教えてくれるのであると気づいたことでした。そこで私たちの周りにはいろいろな教えがありますが、自分の居場所を教えてくれる教えは、浄土真宗の教えではないかと思います。
浄土真宗の教えと、他の教えと違っているのは、浄土真宗は私の現在位置を教えてくれていることではないでしょうか。
私たちは現在位置を知らずに、自分の向かっている方向は間違いないと思って生きている。そのことが現代社会の混迷の元ではないかなと思います。
その混迷している現代社会にあって、親鸞聖人の教えによって、今一度、私の現在位置(どのように生きているかを)知り、本当に充実して生きていく方向に向かう時が来ているのではないでしょうか。
福岡裕
家の改築工事が始まり、自宅の風呂が使えなくなり、家族で銭湯に行かなければならなくなりました。内風呂の時はそんなに気にしなかったのですが、子どもに風呂に入る作法を教えなければなりません。銭湯につかる前にはかかり湯をしなければならないこと。身体を洗う時には隣の人に気をつけて洗わねばならないこと。いろいろ細々と言いました。銭湯にも慣れた頃、どうやって銭湯につかるのかを見ていたら、ちゃんと言いつけを守っていたので少し安心しました。
ある日のこと、年齢は20歳過ぎくらいの若者が銭湯にタオルをつけて気分よさそうに入っていました。そこへイレズミを彫った怖そうな人が、その若者に向かって、「オイ、兄ちゃん。銭湯にはタオルはつけんもんや」と一言。それを聞いた若者は慌ててタオルを銭湯から取り上げました。その光景を見た時、学生時代に先輩から注意を受けたことがよみがえりました。「人に迷惑をかけるな」とよく言いますが、でも、知らないうちに迷惑をかけているというようなことはよくあります。他人から注意されて初めて気がつくということがあります。銭湯にタオルをつけていた若者も、人に迷惑をかけているなどとは思っていなかったのでしょう。誰しも迷惑かけたくて迷惑かけるものでもないし、知らず知らずのうちに迷惑をかけているのが実際ではないでしょうか。
『歎異抄』第5章は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」(真宗聖典628頁)と伝えています。私たちの住んでいる娑婆世界は誰彼無しに迷惑をかけあいながらも、お互いに戒めあって生きていかなければなりません。特に現代では、自分の家族ということにこだわり、ややもすれば問題をかかえて、その中に引き籠ってしまう我々に、「共に生きる」という根源的な意味を示唆しているように思います。
伊藤誓英
さて春です。となれば多少なりとも出会いのある季節ではありませんか。その先には喜びや楽しみを共有しあえるような出会いとなることもあれば、性格や価値観の差異による不仲を生みだす結果となるような出会いもあると思います。
聖徳太子は十七条憲法に、誰もがそれぞれに執着をもつ存在であり、また誰もが善人と悪人の両方の姿をもつ存在でもあるとし、人間関係における衝突を通し、自分の思い込みや欠点に気づく機縁としなくてはならないと述べられました。
人間は十人十色であり、そこには十色の主義主張が存在します。それが個々の立脚点でありますが、それを絶対化することは耳をふさぐことにもなり、また一方的な視点で他者を見ることは目をふさぐことにもなるのだと思います。戦争だけでなく職場や家庭内においてもいろいろな衝突がありませんか。しかし、十色の主義主張と衝突することにより、自分の主義主張が問い直されたり、明らかになったり、バラバラだからこそ深めあえたり、豊かになったりする。それが「出会い」より開かれる世界ではないでしょうか。
春は出会いの季節であると同時に、新たなる目標を起てたりもする季節でもありませんか。「目を開けて、聞く耳をもつ」ということを心のどこかに留めて、人と出会い、その先に自分に出会い、多くの出会いから学ばしていただけるような歩みが私もできればと思います。
金森了俊
先日、レジャーセンターに遊びに行きました。駐車場が満車なので、最後尾に並んで待ちようやく入り口まで来た時、私の車の前に、突然横から進入してきて停まり、人を降ろすためにもたもたしている車がありました。少しでも早く駐車場に入りたかったので「こんな所で人を降ろすなんて非常識な人だ」「いい加減にして欲しい」と怒りがこみ上げてきました。駐車場に入っても駐車できるか不安でしたが、ちょうどセンター正面のところに来た時に、私の車の横から一台出て行きました。その瞬間、「やった!こんないい場所が空いた。なんて今日はついているんだ」と思い、特等席に駐車できました。喜びと共にここに停めることができたのは「先ほどもたもたしてくれた車のおかげだなー」と思えました。
「たまたま人を降ろした車があった」「たまたま帰っていく車があった」という事実に振り回されて、一喜一憂しているわけです。この時、私は思わず蓮如上人の「行くさきむかいばかりみて 足もとをみねば 踏みかぶるべきなり 人の上ばかりにて わがみのうえのことをたしなまずは 一大事たるべき(真宗聖典889頁『蓮如上人御一代記聞書』191)」の言葉を思い出しました。この手のひらを返すようにコロコロ変わるあさましい心にあきれてしまい、そして先ほどの運転手を怒っていた自分が不思議にも恥ずかしく思えました。
蓮如上人は「人生の一大事」とは、わが身を知ることと教えてくださいました。これは丁度、私の顔は鏡の力によらなければ見えません。それと同じように私の心は私の力では見えません。仏の光に照らされて、初めてこの私の身勝手さを知らせていただくのであります。たえず、光に照らされる聞法のご縁を大切にしたいと思います。
三浦崇
春風と共に甲子園球場から選抜高校野球の大会歌『世界に一つだけの花』のメロディが流れてきます。
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン
日本ではここ5年連続して、年間の自殺者が3万人を超えていると報じられています。世界でトップの長寿大国日本は、また世界で有数の自殺大国でもあるということでしょうか。このことについて、作家の五木寛之さんは、「十数年にわたる泥沼のベトナム戦争で、アメリカが失ったアメリカ人の命は約六万人であった。日本では空襲警報もならず、爆弾も落ちず、機関銃の弾も飛んでこず、物は溢れスポーツや音楽や様々な催しが華やかに行われている中で、わずか2年間でそれ以上の一般市民の死者が出ている。平和な時代の陰で見えない戦争が続いているのではないか」と言われます。
4月1日は親鸞聖人の、そして4月8日はお釈迦様の誕生日です。お釈迦様は誕生されてすぐ七歩あゆまれて「天上天下唯我独尊」と宣言されたと伝えられています。
お釈迦様の誕生の姿を通して仏教が私たちに教えるものは、人間は生まれて歩むものであるということです。そして、その歩みは、他人と比べ競い合って、自分が少しでも優れたものをめざす、最上尊・ナンバーワンを獲得しようとする歩みではなく、他と比べる必要がない、かけがえのない、最上尊・オンリーワンの自分に目覚め、そのいのちを生きよと教えるものであります。
それは、満足を求めての歩みではなく、満足から出発する歩みであります。いのちを飾り立てる歩みではなく、生き生きといのちを輝かせて生きる歩みであります。
世界でトップの長寿国を手に入れて、延びた寿命をどう生きるのか。その道が見出せない限り、長寿国はそのまま自殺大国にならざるを得ません。
静かに、しかし深く強く「吾(われ)、当(まさ)に世において無上尊となるべし」とのお釈迦様の教えが求められていることを思わずにおれません。
藤本和哉
『世界に一つだけの花』この歌は、人気グループ「スマップ」が歌ってヒットした歌です。今年の春の選抜高校野球大会のテーマソングにもなっています。様々な歌がありますが、この歌の歌詞にはたいへん考えさせられるものがあります。歌の中で、次のようなメッセージを送っています。
僕ら人間はどうしてこんなに比べたがる
一人ひとり違うのに
その中で一番になりたがる
そうさ僕らは 世界に一つだけの花
一人ひとり違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
一つとして同じものはないから
ナンバーワンにならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン
まさに、今の人間社会の現状を言い当てていますし、人間いかに生きるべきかに対して、一つの答えを示してくれています。一人ひとり違うのだから、他人と比べるよりも自分なりの生き方を大切にすること、みんなの中の一番よりもかけがえのないたった一人の私でありたいと訴えているのです。
人間本来の生き方について考えさせられます。私たち一人ひとりが「特別なオンリーワン」であれば、先に咲いた花を羨むことはないのです。いつ、どこで、どんな花に咲こうともかけがえのないたった一人の私なのです。しかし、ついつい背伸びをしたり、他人と比べてしまっている自分がいるのです。それも人間だからでしょうか。
『阿弥陀経』に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」といところがあります。それぞれの色が、それぞれの色に光るということです。「オンリーワン」である、ありのままの自分を素直に受け入れて、一日一日をていねいに生きたいものです。
安田豊
「ご院さん、大事な体だから風邪をひかないでね。代わる人がいないんだから」
冬場のお参りにお邪魔をさせていただくと気持ちのこもった暖かいこの言葉を何度となくかけていただきます。「ありがとうございます。あなたもお体を大切に。代わりはいませんよ」といつも返答をするのですが、勿体無いことに「有り難い」とは思うものの、さしてそれ以外の思いはありませんでした。
そんな日々を送る中、通りがかりの寺院の掲示板にふっと目がとまりました。
「周りの人たちの愛が私を育ててきたのだ。それを忘れてはならない」
私はこの言葉が目に飛び込んできた瞬間、あの会話が頭に浮かび、自分自身が恥ずかしく、また情けなく思えたことをよく覚えています。その時の気持ちを言葉にすると何かぎこちないのですが、私はまさにその文字によって今までの自分の姿に気づかされたのです。
皆さんから支えられ、お育てをいただいているということを忘れた生活を送る毎日。今こうして気がついてみたら、すでに住職の身だったという事実。そのお育ての上に成り立っている事実に気づかせていただいた時、今まで以上に皆さんからのお心遣いと、また同時に住職の責務を痛感せずにはおれませんでした。
本当に何気ない日常会話がきっかけでしたが、「日々このような形でお育ていただいているのだな」と気づかせていただきました。そう思う今この時もお育てをいただいている私です。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。