003善悪の二つ総じてもって存知せず 

服部拓円

つい最近、私は30年ほど前のアルバムを見ておりました。その一枚の風景写真には、ショッピングセンターやコンビニエンスストアもなく田んぼの広がっている様子が写っていました。写真にはありませんが、50年前の風景だともっと違うでしょうし、100年前では更に違っているのではないでしょうか。写真に写っていたのは、景色だけではなく、昔から現在に至るまで、便利さ快適さを求めてきた歴史のようにも見えました。

便利さ快適さを求めるのは単に生活だけではありません。文明・社会においても同じことで、苦悩ある生活から脱却を求め、その都度改革を行う歴史を繰り返しております。しかし、改善されるどころか、戦争もなくならず武器の発達で酷(ひど)くなり、人以外の生物が脅かされるものとなってしまいました。

人類は「理想郷」を現代に創ろうとしておりながら、破滅へ向かっているのではないでしょうか。

少し話が大きくなってしまいましたが、苦悩の生活とは、有り余るものでも社会の改革をもってしても、一時的にしか満たされず、また新たな苦悩が生まれるだけでしょう。ただ解決を求めるのではなく、本当の願いをはっきりとさせることが大切なのではないでしょうか。私たちはそのことを真宗からもっと学ばなければなりません。

002仏前結婚式 

藤井隆信

新しい年を迎え、皆さまのお念仏の生活の更なる深まりをお喜び申し上げます。

「日々新たなり」という言葉がございますが、なかなかそのように受けとることはできません。「今日もまた同じように」というのが、私の望みなのです。それでも人生には新たな出来事が次々と起こってきます。昨年の11月、私のお寺で二つの仏前結婚式がありました。一つは私の長女の結婚式。もう一つは2週間後、ご門徒さんの長男の結婚式でした。

長女の結婚にはとても驚かされました。突然「私この人と結婚します」と紹介されて、父親として「さてどうしたらよいのか」親の立場が示せません。私の父親が、私の姉や妹の結婚について、強い権威をもって臨んだことが思い出されました。しかし、自分には親の権威といったものは何もありません。長女は「“結婚式”はしません」と言います。私はうろたえてしまい、妻が必死に頼んで、どうにか結婚式をしてもらうことになりました。

仏前をお荘厳して、両家の親族の皆さんに集まってもらい、司婚の言葉、二人の結婚の誓いの言葉が述べられました。全く知らない者同士であったこの二人は、今不思議の仏縁に遭い、夫婦となったのです。そして、その因縁の一つを私が担っているのです。そんな深い思いがこみ上げてきました。自分たちが結婚した時の新鮮な感動はとうに忘れてしまいましたが、その自分たちの結婚が、今この長女の結婚の因縁となって現れ、同じこの本堂で仏前に誓いを述べている。誠に不思議なことでした。

ご門徒さんの方は、今ではとても見られないような、昔ながらの盛大な結婚式でした。大勢の人がお祝いに押しかけ、本堂に五色の幕をめぐらせて、高欄の上に緋毛氈(ひもうせん)、その上を白無垢の新郎新婦が入堂、華やかな雅楽が鳴り響き、「村中の人が花嫁を迎える」というお祝いの仏事を勤めさせてもらいました。

結婚式という人生の一大事に遭わせてもらうことが、「大勢の村人」の眼前で行われる素晴らしさ、そして私自身が広大無辺の深い因縁を生かされて生きていることを知らされたのでした。

001日々新た 

橘秀憲

謹んで新春のお慶びを申し上げます。昨年は、一年を表す漢字に「偽」の一字が選ばれました。揮毫された清水寺の貫主も「大変恥ずかしいことである」とテレビインタビューに答えておりました。人の為と思いながら、いつのまにか自分のためにルールを破ってしまって偽る。残念なことですが、誰にも覚えのあることです。

大晦日の夜に除夜の鐘の音を聞きながら新しい年を迎えるのが、私たち日本人の年中行事です。あちらこちらから鐘の音が聞こえ、ラジオやテレビでも各地の除夜の鐘が放送されます。仏教では、人間に百八つの煩悩があって、梵鐘の音を聞くと、その煩悩から解脱するというふうに言われているところから広まったようです。一つ一つの煩悩から解き放たれて自由になり、新しい気持ちで年を迎えることができますよう、大晦日に鐘を聞きながら払い清めるということのようです。聞くだけでなく自分で撞けばさらに効き目があるということなのでしょうか。

ここ桑名別院では、年があらたまってから初鐘として撞いていただいています。私たちは生きている限り、さまざまな煩悩が次から次へと起こってきます。そういう煩悩を断つことは難しく、決して無くならない。煩悩から解き放たれることは無いわけです。煩悩まみれであるという自分を確認する除夜の鐘にできたらと思います。

浅田正作さんの『骨道を行く』という詩集の中に『日々新た』という題で、

つまれても つまれても 新しい芽 煩悩の芽

大悲の大地に抱かれて 勿体なし

今日もまた 鮮やかな芽 煩悩の芽

という詩があります。親鸞聖人は、

凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(真宗聖典545頁)

と示しておられます。常に自身の在り方を確認しながらこの一年を過ごしていきたいと思います。

037あとがき 

「心をひらく」29集をおとどけします。法話をしていただきました方々にはたいへんご苦労をおかけました。また電話を通して聴いてくださった皆様、ありがとうございました。

私自身3年続けて担当しましたが、なかなか自分の思考のパターンを破れないし、自由で柔軟な発想ができなくなっているなぁと感じました。教えられたことを自分のものとしてしまい、そこには臆面もなく安住しているだけではなかったのかと思いました。全く、法話を担当しながら、改めて自分の仏法に対する態度、聞法姿勢が問われ、聞くことの難しさと大切さを教えられたことです。

さて、来年度から新しい委員がテレホン法話を担当します。今後ともよろしくお願いします。

036「本当のこと」に遇いたい、なりたい 

片山寛隆

今年も終わろうとする中で、何かと問われたのが偽装、偽証ということがありました。表装に印してある製造年月日が実際の製造日と異なって販売がされて大きな反響がありました。

昔はその土地へ赴いたので「おひとつどうぞ」と、お隣にお土産を持っていったものです。しかし、今は全国何処にも同じものが売られているということが当たり前の時代です。現代という経済至上主義を象徴していることが、このような形で露呈したということでしょう。そして、一斉にこの偽装に対して「偽物は拒否」という大きな声になりました。私たちは表装と中身の異なる偽物は嫌いであり、拒否であります。

偽物を拒否し、あらゆるものを監視していくことがこれから益々厳しくなることでしょう。しかし、その外への眼差しと同時に私自身の偽装に対して問いをもつことを忘れてはいないでしょうか。真宗門徒を名告(なの)り仏教徒ですと公言しながら、中身は生活はどうなっているのか、誰もが「偽物は嫌い」というものを有しているものです。その嫌いなものの正体を知りたい、解りたい。そして「本当のこと」に遇いたい、なりたい、と歩まれた先人こそ私たちのご開山親鸞聖人ではなかったでしょうか。

035報恩講のお念仏に導かれて

伊藤一郎

今年も報恩講の時期が参りました。

昨年の桑名別院報恩講は例年の通り12月20日から4日間厳修され、23日ご満座法要の日を迎えました。私は当日境内の駐車係としてお手伝いさせていただきました。その日は寺町で催される三・八市や年末の墓参りのご門徒と重なり、境内は満車で整理のつかない状況となりました。丁度そんな時、ご年配の男性が自転車を引いて入ってこられ、

「あなたは今日の係かね。私ら墓参りの道をどう考えているのか。出入り口もなし、通路も全く塞ぎ報恩講もないでしょう。すぐ車を移動するように」

と鋭く注意を受けました。急遽対応しようにも既に詰め込んでしまった車を動かしようもなく、お詫びの言葉もそこそこに対策を思案しておりますと、丁度三・八市帰りの一台の車が出入り口付近から出て行き、通路が空きました。注意した男性をよく見ますと、右足が不自由で自転車を杖代わりに使っておられたのです。そのため、自転車ともども狭い通路を通る必要があったのです。

「身体の不自由な人のことをあなた方は気遣っていないのか。親鸞さんが泣きますぞ」

男性の最後の言葉に私はたいへんなショックを受けました。「自分さえよければいいこの悲しさ」浅田正作氏の詩の言葉を思い起すのです。

自分の意識が作り出す幻影に振り回され、自らの都合のみで生きている自分に気づかされずにはおれません。何のことはない念仏しながら自分を中心に生きてきた私なのだと気づくのです。

◎自我の塊であり自分の闇そのものであろうか。

◎報恩講のお念仏に導かれ私の身勝手さに今また気づくのです。

◎そしてそれは自転車の老人ではなく、仏様そのものだったのです。

南無阿弥陀仏

034報恩講 

芳岡里美

お寺に縁あって嫁ぎ、お念仏に出遇い、報恩講に参らせていただくようになって、早いもので20年が経とうとしています。

報恩講とは、親鸞聖人の御命日をお迎えする大切な法要であるということを知識として理解するよりも、先に感覚的に体感させてくださったのは、報恩講が近づくと、お忙しい中、日を空けて時間を割いて、準備のため、お寺に集まっていらっしゃるご門徒方であったのだと、今感じています。

丁寧に手間暇掛けて仏華を立て、お華束(けぞく)を餅米から作って盛り、そして、各自が家で育てた大根でお講汁を炊く。何事も効率の良さが求められていると思い込んでいる私には、大切に丁寧に準備されていく、その様がそのまま報恩講なのだと感じさせられました。この準備に平行して晨朝が勤まります。私は自坊なので参らせていただきますが、まだ夜も明けぬ早朝に、わざわざお参りにいらっしゃる方々の姿に、私のための報恩講なのだという声が聞こえてくるような気がしました。後、何回私は報恩講をお迎えすることができるのでしょうか。また、お迎えできるのなら、大切な法要であること、私のための報恩講であることを確認できるご縁に感謝したいと思います。

033報恩講に遇う 

海老原容光

毎年11月21日より28日まで、京都東本願寺では親鸞聖人の報恩講が営まれます。そして私たち真宗門徒も「一年は報恩講に始まり報恩講に終わる」という言葉で語り継がれているように、報恩講は一年で最も重い、厳粛な仏事としてのお勤めをし、相続してまいりました。

では、私たち真宗門徒にとって報恩講が何故一番大切な仏事なのでしょうか。

それは親鸞聖人が明らかにされた念仏の教えに出遇えたということです。聖人は念仏によって我が身に遇えるという道を示してくださいました。つまり、念仏の心を90年の生涯をかけてご苦労され、私たちのところまで伝えてくださいました。これが何よりの聖人から賜った恩徳であろうと思います。

もし念仏の教えに遇うことがなかったら、もし念仏の心を教えていただくことがなかったら、この私の人生は何だったのだろうか、とその真実の意味を我が身に感ずることが報恩講に遇うことでありましょう。

しかし、今改めて私たちの現実のありさまは、自我分別の生き方以外の何ものでもありません。親鸞聖人は人間の正体を「凡夫(ぼんぶ)というは、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終(りんじゅう)の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと」(真宗聖典545頁)と悲嘆されておりますが、私たち人間は、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)の三毒の煩悩に覆われ、焼かれ、それに酔いしれそこから一歩も出ることもなく眠り伏せているありさまであります。『出離の縁あることなし』(真宗聖典215頁)念仏の教えに遇うということはこの煩悩具足の我が身が、さまざまな境涯をへめぐる我が身が、一切の計らいをもってしても乗り越えられない業縁の身への頷きでありましょう。浄土真宗はこの身に展開します。

032報恩講‐御流罪の地で考えたこと‐ 

花山孝介

先日、ご門徒と一緒に新潟上越にある親鸞聖人のご旧跡を訪ねました。幾つかの寺院を回り、最後に夕日が美しいということで上陸の地「居多ヶ浜」に行ったのですが、その場所に立ちながら、この地が聖人にとってどのような意味をもつのか考えさせられました。

聖人は、法然上人との出遇いを通して「ただ念仏」の教えに生きた方です。その聖人が何故流罪という刑を受け、この地に来なければならなかったのでしょうか。時の有力者に嘆願して実刑を免れることもできたかもしれませんが、史実は法然上人と共に刑に服されました。しかしその態度は、刑に服しながらもその刑の不法性を生涯叫び続けられる歩みでした。それは、聖人自身、念仏の教えにより公(おおやけ)を生きる者としての境地を得ていたからだと思われます。そのことは、自身の個人的な事柄を記されなかったことに明白です。

さらに「非僧非俗(ひそうひぞく)」を生きる者としての性(しょう)を「禿(とく)」と表明し、法然上人との死別を通して、やがてその師教を明らかにしていく者としての「親鸞」の名告(なの)りを感得し展開されたのがまさにこの地ではなかったのか。それはまるで、比叡山時代やそれまでの生活の中身が総括されると共に、師亡き後の仏弟子の責任を生きる身の決定がなされた場所であったと思われてなりませんでした。

今年は、奇しくも御流罪八百年の年です。無実の罪を受けられた弾圧の痛みの意味を問わないままで、年中行事のひとつとして「報恩講」を勤めるとしたら、その法要を勤める意味は一体私にとって何なのか、改めて考えさせられました。

031報恩講‐私を見せて下さる智慧に遇うことが出発点‐ 

森英雄

人間の価値観は、大きいこと、勝つこと、儲かること、健康であること、目立つこと、能力のあること、知識的であること等に中心をおいている。だから、自然と優劣の意識に縛られて生きざるを得ない。その中で安心を得たいがために条件的に有利な世界を実現しようとして、一生を終えるというのが実情ではないでしょうか。

いつも他人と比べてしか価値を感じないから、自分の生きていること、そのものに充分満足して生きることができないようである。自分で勝手に立てた優劣の基準に満たないと不満や不足が出て、生きることにも嫌になってしまう。反対に条件が満たされると安心と満足が訪れるかというと、そうでもないらしい。

結婚する前は夢が叶うのでワクワクしているが、いざ一緒になると相手の欠点ばかりが目についてしまう。優しくなろうと思っても、相手が自分の思うとおりにしてくれないので、不満が高じるばかり。では口数少なくおとなしい相手がいいのかというと、何か頼りない気がし、覇気がないと文句を言う心がうごめく。

一体自分はどうしたらいいのかがはっきりしない。そういう自分に対し、自信がなくなることが大事で、文句を言わねばならない自分に焦点が当たる、そういう時をいただいている訳です。それは、自我の殻が破れ、ほんの少しだけれども光が差し込み、仏のはたらきが初めて私に届く時なのです。結婚を期に、相手を自分のモノと考え、時に奴隷扱いしてしまう。要求の対象物としてしか見られない自分を知らせてくださる相手なのに、相手ばかりを問題視してしまう。

その業もお与えです。そこにはたらく自分自身を照らすハタラキを光明と言います。その力が強くなって初めて、自分という殻の固さを思い知らされます。

その光明が自我の殻を破る時、仏様の一念が私の上に名乗りを上げる。それが南無の心です。実相の知恵です。その知恵に導かれて生きる生活が満足と安心をもって始まるのが報恩講の原点です。

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。