005自分 

藤井信

毎日の生活の中では、時々何をやってもうまくいかない時があります。そんな時に限って、さらに悪いことが続いたりします。自分のとった行動が裏目に出たり、自分の言葉を思いもよらないように解釈されたりします。

お参りに行ってお話をしていると、こんな話を聞いたりします。不幸なことが続いて、占いなどで見てもらった等の話です。そんな場合よくありがちですが、先祖の誰々があなたをすがっている等、不幸の原因が先祖のせいになります。もし本当にその言葉をそのまま信じることができるならば、自分にとってはとても都合がいいですね。なぜなら、あなた自身には責任はないと言われているようなものですから。話は戻りますが、何をしても物事がうまくいかないことが続いていた時に、ふと叔父のお寺の報恩講で、講師の先生が話されていた言葉が頭によみがえってきました。

高光一也という方の言葉ですがこんな言葉です。「人間は朝から晩までいろんなことをしゃべっている。いかにも分かったようなことを言っているが、人間の話している言葉は、つきつめれば〈そんでも、そやけど、あいつが、こいつが〉の四つの言葉を繰り返しているだけではないか」と。

なるほどと思いました。確かに私たちは、人が寄ればこのような話ばかりです。〈そんでも、そやけど〉と言い訳ばかりで自己を弁護し、〈あいつが、こいつが〉と他人に責任を転嫁してばかりの生活に明け暮れています。

私たちは、そのようにしていつまでたっても同じ過ちを繰り返し、大切な時間を空しく過ごしています。悪いことといっても、結局は自分にとって都合が悪いことというだけなのです。自分の姿を正直に引き受けることなく、他のせいにして逃げてばかりいる、そんな自分を言い当てられた言葉でした。

004お念仏

藤井正子

「阿弥陀様を一人ぼっちにしていませんか」

この言葉は今年届いた年賀状に書かれていました。この時「阿弥陀様を本当に必要としていますか」「何を頼りにしていますか」と問われたような気がしました。そして『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』の中にある上人の仰せと重なってまいりました。正月一日にご挨拶にまいられた道徳に、

道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏(ぶつ)にまいらせ、このもうしたる功徳(くどく)にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御(おん)たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり。(真宗聖典854頁)

という仰せの言葉です。つまり、口に称えてる念仏は同じでも、心得に違いがあると言われるのでしょう。

私たちは「念仏を称えなさいよ」と勧められますと、助かると思って念仏を一生懸命たくさん称えることがありますが、困ったことが起こると「あの時お参りをしなかったから」とか「朝晩お参りしているのに、何でなん」というように、念仏を取引の言葉のように思ったりします。

南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀仏の衆生を救済するための願いと修行が成就した相で、南無はたのむという衆生の機を表し、阿弥陀仏はたすけるという仏の法を表すので機法一体ともいわれます。この「弥陀をたのむ」ということは、念仏する自分自身が問われ、そこにどこまでも自分の思いを立てていこうとする自分の執着心の深さを知らされ、阿弥陀仏のこころに頭が下がったということなのでしょう。

私たちは、南無阿弥陀仏のいわれを明らかに聴聞せず、また、称えている自分自身を問うことのない時、仏様を自分と離れたところにおくことになり、念じられる仏様と念仏する私が、別々になってしまいます。阿弥陀様を一人ぼっちにしている原因は、自分の力で何とでもなると思っている私自身にありました。

003摂取不捨 

員辨暁

最近、新聞やテレビを見ておりますと「自殺」ということが毎日のように報道されております。人が自殺に至るまでの苦しみや悩みの内実は、人により様々だと思います。本当に悲しいことでございます。私たちは日常生活の中で、物事が自分の思い通りに進んでいる時には、あまり〈いのち〉というものを深く考えることはないのですが、逆に物事が自分の思い通りに進まなくなると、自分の〈いのち〉ということを深く考えることになります。自分の〈いのち〉はこの世に本当に必要なんだろうか。本当は必要ではないのではないか。もし、必要でなければ捨ててしまえ、というように、私たちは自分の〈いのち〉を自分の思いや、自分の都合によって考えていることが多いようです。

そんな中、あるお寺の掲示板に次のような言葉が書いてありました。「あなたが〈いのち〉を見捨てても〈いのち〉はあなたを見捨てない」という言葉です。私たちの思いや考えで自分の〈いのち〉見捨てることがあっても〈いのち〉そのものは私自身を見捨てないということです。

私たち浄土真宗のご本尊である阿弥陀様のはたらきは、「摂取不捨」という言葉で表されます。分かりやすくいうと「選ばず」「嫌わず」「見捨てず」という言葉になるそうです。私が今までどんな歩みをしてこようとも、決して阿弥陀様は選んだり嫌ったり見捨てたりしないということです。私たちは自分の思いの中に閉じこもってしまうと、必ず行き詰ってしまいます。私たちがお念仏を称えるということは阿弥陀様の広く深いおこころに出遇うことなのです。

改めて「あなたが〈いのち〉を見捨てても〈いのち〉はあなたを見捨てない」この〈いのち〉とは、阿弥陀様のおこころです。

002いのち

折戸恒夫

三重教区のみなさん、今日はテレホン法話でみなさまにお話をするという機会を与えられました。未だ勉強中、若輩の身でおこがましいと思うことしきりですが、新しい年を迎えました今、強く感じていることについて申し上げます。

宗祖御遠忌テーマに「今、いのちがあなたを生きている」と掲げられ、昨年末には昨年を代表する漢字が「命」と決まりました。一つしかない大切な命、かけがえのない地球より重いとまで言われる命を、弄(もてあそ)び、絶つ事案、事件の数々。親が子を、子が親をさしたる理由もなく殺し、飲酒運転による度重なる死亡事故。外に目をやれば、テロと報復の応酬による限りない殺戮(さつりく)等枚挙に暇(いとま)がありません。悲しむべき、許し難い犯罪なのであります。この現状に私たちは目を覆っているだけ、嘆いているばかりではいけません。荒(すさ)ぶ心を癒し、危険にさらされている命を救い、安心安全な社会・世の中とするため、座視することなく立ち上がらなければなりません。誰一人として被害者となり、また加害者としてしまうことは許されないのであります。

宗派、教区、組、寺の内にこもって平穏無事を享受しているだけでなく、親鸞聖人の教えをいただき、そして命を救うために積極的に街頭に、諸会合に出て、説話し、語りかけ、公開の講座を数多く開催する。効果的な音楽法要により視聴者に念仏の教えを訴える等して、広く人の心を救い、人心を安定させて、忌まわしい犯罪のない、広く、大きく、暖かい社会の実現に多大な貢献をすることが現在の急務であると、思料するものであります。

思いのままに申しましたが、私はお念仏の教えをいただき続ける生活を通して、命の大切さが次世代にしっかりと引き継がれるよう願うばかりです。

001先祖供養 

磯野恵昭

今年もお念仏申せる新しい年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
先日、ある宗教新聞に儒教の専門家が「日本では昔から先祖供養といって、それが仏教の教えからできているように思っているが、先祖供養は儒教の問題です」と書かれておられました。

なるほど倫理・道徳の教えである儒教は、人間の道として、親や先祖への孝行を説かれたものですから、親の命日はおろそかにしません。父の命日には父の、母の命日には母の位牌をまつり、家族そろって未だ生きているかのごとく捧げ物をしご挨拶をして、丁寧に儀式を行います。ただし、儀式・儀礼は行うことに意味があり終われば終了です。しかし、仏教の儀式は行儀であります。行儀とは聞法し残った人皆が目覚めの方向へ歩む人生にと導かれることであり、それが法事の意味でもあります。

その専門家は続いてこうも書かれておられました。「もう一つの違いは、儒教では位牌を置いて亡くなったその人をまつりますが、仏教には本尊があります」と。そんな仏教と儒教の違いを示された最後に「だから仏教は本来の仏教に立ち返ってください」と締めくくられておられました。

どうか亡き人の死を他人事にせず、私の生き方の上に生かしていく受け取り方をしていただき、本来の仏教に立ち返ってくださる歩みにしていただきたいと思います。

037あとがき

「心をひらく」第28集をお届けします。法話をしてくださる方には、もちろん何度もお願いしている方も多いですが、新しい方、あまり担当していただかなかった方、坊守の方、門徒会の方にも、多数お願いしております。たいへんご苦労をおかけしました。

最近、思いますことは法話を聞くということももちろんですが、話をするということにおいても、実は育てられているのだということです。多くの先生方、先輩方ばかりか多くの見知らぬ方にさえ、私たちは育てられているということです。教団があるとすれば、これこそが教団でしょう。

念仏の教えは、いわば人々の体温の中で、育まれてきたということでしょう。

036ほとけ様の願い

片山寛隆

先日も、今年を振り返って漢字一字をもって言い当てれば「命」ということがありました。「いじめ」の問題から自らの生命を絶つという痛ましい事象が後を絶たない、あるいは親が我が子を虐待して死に至らしめるということが何処にでもあるような世の中になってしまったと、嘆きの声も何か空虚を感じてしまう時代です。「どうしてこんな問題を起こすような子になってしまったのでしょうか。こんな子に育てた覚えはないのに」と悲痛な訴えを聞くことがあります。

我が子との関わりにおいて、親は一生懸命にがんばって育てていることには、どんな親も変わりはないものでしょう。しかし、問題が生じた時、そのことにどのように関わるかが普段の関係によって決まってくるのではないでしょうか。

子どものためと、うるさいと思われても、子どもに対して「勉強しなさい、宿題を早くしなさい」と口が酸っぱくなるほど言って育ててきましたという親があります。本当にそうでしょうか。何度も何度も言えば、子どももそれに対して応答してくれることもあれば、時と場合によっては応えてくれない時もあります。その時親は「こんなに言っているのに言うことを聞かなかったら、もう知らないよ」ということを知らず知らずの間に言っていることに気がつかないものです。

その言葉が子どもにとっていかなる言葉であるか「もう知らない」と親から突き放されたその声が、親子の断絶を親の方から宣言した言葉であることを。

子どもの悩みを親が感知できない。子どもが悩みを親に訴えられない、子どもを孤独にしている原因の一端が親にあることを考えてみたいものです。

ほとけ様は、四十八の願いを私たち一人ひとりにかけて誓ってくださいました。そして、その願いに気づき頷くまで私を心配して、私の傍らを離れないと誓ってくださいました。だから、ほとけ様のことを昔から親様と言ってきたのです。

035内観(ないかん)の眼(まなこ)をいただく

泉有和

仏教の特徴を一言でいうと「内観」の教えであるといわれます。内観というのは内側に眼を開くことです。この肉体にある眼だけは、どれだけ努力しても自分の内を見ることはできません。この内観の眼を仏様の眼というのだと教わりました。

この眼をいただくことなしに、人間の眼だけで見ていると、何事につけ自分抜きでしか考えることができません。あの人が悪い、この人が悪いという思いでしか見ることができないというのです。「自分のことだったなぁ」と受け止めることができないのです。今の苦しみをすべて他人のせいにして、自分に原因があることに気がつかない。その心が自分を苦しめ、周りの人たちを苦しめるのです。

この前の夜、暗い中を手洗いに起きたのですが、その途中足の指をぶつけてしまい、あまりの痛さにうずくまってしまいました。我が家の板の間から畳の間の境には敷居があるのですが、それが心持ち高めなのです。普段なら引っ掛けることなどまずないのですが、その敷居に足をぶつけたのです。その時、まず浮かんだ言葉は「誰や、こんな家作ったのは!」です。寝ぼけ半分で電気も点けずですから、すり足でもして気をつけて行けばこんなこともなかったのにと思うことは思うのですが、その後から「それでもあの敷居が高かったのが悪い」という、他に責任を転嫁していく思いが湧いてきました。頭では分かったつもりでいても、どこどこまでも自分の問題を認めることのできない者がここにいたのですね。

同じ頃、テレビから「いつも誰かのせいにしてばっかりだった俺」という曲が流れてきました。湘南乃風というグループの曲だそうですが、その曲名に心が動かされました。「すみません」と頭を下げながらも、内側ではなかなかそうは思っていないのがこの私です。でも、そんな自分がお念仏をいただくというのは、難しいことではないのだというのです。「問題はこちらにあったなぁ」と、我が身の間違いない事実に気がつくだけの世界です。こんな簡単なことですが、照らされないと気づかない、内側を見る眼をいただかないと、なかなか気がつかないのですね。

仏様の教えに出遇うと、内側の眼をいただいて、素直でない身勝手な自分が見えてくるのです。人間は教えられないと、自分が悪かったということに眼が覚めないのです。

食べ物や着る物が十分にあったり、お金がたくさんあったりと、生きていく上の様々な条件が満たされれば、人間は幸せになるのかもしれません。しかし、より大事なことは何をこの身に教えられて生きるか、それがあるかないかです。内観の眼をいただいているかどうかでないかと思うことです。

034晩秋に思う

松嶠律子

深まりゆく秋の景色を見ながら、夕暮れ時なぜかしら寂しく思います。若い頃、実家の方角へ沈む夕日を見て秋は何とも言えぬ、寂しさを感じたのとは別の思いです。今は私の人生と照らし合わせて見ているせいでしょうか。最近、気は若いつもりでいますが、確実に歳を感じます。目の衰えであったり、物忘れが多くなったり、ちょっとした所でつまづいたり、疲れが二・三日遅れて出てきたりだとか、そんなことが多くなってきました。つい数年前、ボランティアでお年寄りの方々と接する時、私はまだまだ若いと思い、老いなんてずっと先のことと思っておりました。もう孫がいる歳なんだし、当たり前のことなのに気持ちがついていかなくて困ったものです。秋から冬へと季節は変わっていきます。寒い冬に備え衣類や暖房と生活する上での準備はできますが、人生の冬へと向かう準備はと思うと、立ち止まってしまいます。どんな心構えが必要なのか、何をすべきなのか不安で一杯になります。そんな時、歎異抄の言葉を思い出し、道が見出せたような気がしました。
なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば)の縁(えん)つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり( 真宗聖典630頁)

いろいろ心配はあろうともその時が来たなら、阿弥陀様のお浄土へ往けるのです。ですから、煩悩に右往左往されながらでいい、ただ生かされている命を大切にして欲しいという如来様の願いを聞き取っていこうと思えたのです。

走り続けてきた人生、今一度立ち止まり、見つめ直し、私らしい日々を送って行きたいと晩秋の日、思いました。

033報恩講

田代俊孝

大根の収穫とともに今年も報恩講シーズンの到来です。全国津々浦々の真宗門徒から「五十六億七千万…」が聞こえてきます。私の地域でもお寺の報恩講が済みますと、一冬かかって各家庭で門徒報恩講が勤められます。

五十六億七千万 弥勒菩薩(もろくぼさつ)はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし 念仏往生の願により 等正覚(とうしょうがく)にいたるひと すなわち弥勒(みろく)におなじくて 大般涅槃(だいはつねはん)をさとるべし(真宗聖典502頁)

子どもたちまでが、夏休みに稽古したこのご和讃を家族と一緒に大声でお上げします。

親鸞聖人は信心をいただいた人は、やがて必ず仏に成ることが約束されている弥勒菩薩と同じだと申されました。いや、それどころか弥勒菩薩は五十六億七千万後に龍華樹りゅうげじゅ)の下で三回お説法してその暁に仏に成られるが、信心の人はこの度さとりを開くのですとおっしゃいました。

そして、このご和讃が報恩講和讃と定められていることは、報恩講が信心獲得して、弥勒菩薩と同じように「必ず仏に成るべき位」に即くことを勧める仏事であることを意図しています。その意味では、報恩講とは聞法週間あるいは信心獲得週間とでもいえましょう。また、そのことを蓮如上人は「御文(おふみ)」(四帖目第八通)で この七(しち)か日報恩講中においては、一人ものこらず、信心未定(みじょう)のともがらは、心中(しんじゅう)をはばからず改恨懺悔(がいけさんげ)の心をおこして、真実信心を獲得(ぎゃくとく)すべきものなり(真宗聖典825頁)

とおっしゃっています。「改悔懺悔」とは「歎異(たんに)」つまり、自らが法に異なっていることを歎くこと、いわゆる機の深信(じんしん)です。親鸞聖人のおおせをこうむりて、如来の法を深信して、自らが愚かな凡夫であると自覚していくことです。それを経た時に、如来大悲の恩徳が謝せられてくるのでしょう。今年も大根のお斎(とき)をいただきながら、信心獲得のため聴聞させていただく所存です。

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。