カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2013年

017生死無常のことわり

桑原 克

 今年三月に、弟が仕事場で急死しました。朝、いつものように元気に出かけたのですが・・・。
 まさかの出来事で気が動転する中、仏事を迎え、お通夜には、二〇〇人を超えるお参りがありました。突然のことで、家族も知人もただ驚き、何が起こっているのか、朦朧としたままひと通りの仏事を済ませました。その後、七日参りのたびに、法話を聞きながら、残された連れ合いや、子どもたちと、「いのち」や「人生」について住職が話し合いをしていました。

 「いのち」とか、「人生」について、考える時間ができたことは、大変よかったのではないかと思っています。
 改めて、私にとっての弟の死は、「おまえも死ぬぞ」、「本当に死んでいけるのか」と、今の生き方が厳しく問われた気がします。目先に追われ、いつまでも「いのち」があるかのように思い、生活をしています。まだまだ、死ねない、未練の残る生き方しかしていない自分が、あぶり出されました。

 親鸞聖人のお手紙に、「生死無常のことわり」(『真宗聖典』六〇三頁)という言葉があります。人生のはかなさ、〝生まれた者は必ず死す〟という道理のことです。このお言葉は、いのちには「道理」がある、ということを教えられています。
 
ご法話でお聞きしたことは「いのちの全相」という言葉でした。いのちは、四つの相、すがたを持っているということでした。

一つは「生相」(生まれるというすがた)、
二つ目は「老相」(老いるというすがた)、
三つ目は「病相」(病気になるというすがた)、
四つ目は「死相」(死んでいくというすがた)です。

 これがいのち全体のすがたであるということでした。実は、それは本来のすがたであり、いのちの事実であります。しかし、私たちはこの事実を真っ直ぐに受けとめられない、深い無明を生きています。南無阿弥陀仏は、「事実に還れ」という呼びかけです。その呼びかけが聞こえる時、この事実に深く頷く時、悲しみに向き合い、苦しみを背負う力となるのではないでしょうか。

 生活は、私の思いに立つか、道理に立つかの選びです。今回の弟の死を通して考えさせられました。

(桑名組・西恩寺門徒 二〇一三年五月中旬)

016中村久子展をご縁として

佐々木 顯彰

 会議に出席するため、昨年六月に岐阜県高山市にある高山別院に訪ねるご縁をいただきました。
 飛騨高山といえば、高山祭り、朝市などを思い出しますが、かの有名な念仏者として生きられた中村久子氏の生誕地でもあります。
 この時、高山別院での中村久子展を拝見する機会を得ました。

 中村久子さんは、三歳の時に「突発性脱疽」という難病にかかり、命が危ぶまれるために両手両足を切断し、その後の人生を歩まれた方です。

 このような状況での日常生活は想像を絶するものであったと思われます。
 久子さんの言葉には、母親に対する恨みと怒りを、
 「宿世には いかなる罪をおかせしや 手足なき身のわれは悲しき」
と、その心中を語っておられます。

 そんな生活状況の中で、お念仏の教えに出遇う原点になったのが、『歎異抄』だったのです。
 久子さんの後半生を窺いますと、親鸞聖人の教えによって、身の事実を引き受けられ、仏恩への感謝と共に、両親や夫などへの深い感謝の言葉を述べられています。お念仏の教えによって、生かされている身を、
 「手足なき 身にしあれども 生かさるる いまのいのちは とうとかりけり」
といただかれています。

 本願念仏の教えを人生の柱として生きられ、外に向かって批判するあり方から、内なる我が身の事実を受け入れる温もりのある生き方へと転換された中村久子さんです。
 久子さんの人生はともすると、昔話として捉えられ語られるかもしれませんが、決してそうではなくて、五体満足の身体でありながら、なにかしら不平不満だらけの私に、いつでも時代を超えて人生の課題を語られているように思います。

(三講組・安顯寺住職 二〇一三年六月上旬)

015別れからはじまる出遇い

折戸沙紀子

 私は、お寺に帰ってくる以前、葬儀会館で勤めていました。
 勤めていた葬儀会館では、年間八〇〇件ほどの葬儀があり、たくさんの人・葬儀をみてきました。
その中には、身近な方をなくした、ご家族のさまざまな思いや、感情のぶつかり合い、そして、短い時間で通夜・葬儀をむかえられる慌ただしさがありました。

 この、たくさんの気持ちが行き交う空間と時間の中で、私はとても苦手とする業務がありました。
 それは、着付けです。
 三畳ほどのスペースで、一人一五分程で着付けを行います。
 たった一五分という時間ですが、着られる方というのは、故人の奥様や、娘さんや兄弟、故人ととても身近な方です。
 着物を気にされる方もいれば、親戚のご心配や、会葬者のご心配をされる方、故人との思い出を語られる方、たった一五分の中での会話は、いろいろありました。一五分の会話は、あっという間です。
 
 しかし、このような方もおられました。まったくお話されず、無言の方。故人が亡くなられてから一度も食事をとることができず、げっそりとされている方。放心状態の方もみえました。
 そんな方と、三畳のスペースで二人きりでいる一五分が本当に苦手でした。
 静の一五分はとても長く、何を話せばいいのか、どう接すればいいのか、ただただ、一五分という長い時間を、頭の中でいろんな思いをめぐらせて静かに終わるだけでした。

 あるとき、職場の先輩に着付けが苦手だということを相談しました。
 すると先輩は、「私は一番着付けが好きよ」と言われたのです。
 「何で着付けが好きなのですか」と聞きましたら、先輩は、「故人が、どんな方だったのか、知ることができるから好きなんだよ」と言われたのです。
 先輩は、着付けの一五分は、故人がどんな方だったか、どんな風に生きられたか、家族にどれだけ大事に思われているのか、お話しされる方の一五分でも、無言の方の一五分でも、少しだけでも、何か気づくことができる時間だと教えてくれたのです。

 人と人との出遇いには、必ず別れがあり、そして、別れというのは終わりを意味していると、私は思っていました。
 しかし、先輩の何か気づくことのできる一五分というのは、人と人との別れからはじまる出遇いなのです。
 私は、故人や家族が、私に出遇おうとしてくれていたのに、それを無視していたのです。

 別れからはじまる出遇い。先輩のように、すぐにはなかなか出遇うことができませんでしたが、一五分の静けさから生まれる苦手な感情は、何かあたたかいものに変わっていきました。
 それが、出遇っているのかどうかはわかりませんが、人と人との出遇いには終わり、なくなっていくものはない。別れという出遇いが、家族だけでなく、たくさんの人の心に生きていって、伝わり、大きく繋がっていくのだと感じました。

(南勢一組・法受寺候補衆徒 二〇一三年五月下旬)

014おんなの子 ― ある日のお朝事にて ―

梛野 芳徳

 ある日、知り合いのお寺さんで泊めさせていただき、あくる日のお朝事のことです。
 六時半のお勤めに、副住職さんの横には、幼稚園に通う、可愛らしいお嬢さんが参っていました。まだ寒さが残る春の日の早朝、親子で勤めるほほえましいお朝事の光景を、少し離れたところから拝見していると、そのおんなの子は手に何かを持っていました。後ろから首をカメのように伸ばして見ると、誰かは知らないが、おばあちゃんの小さな遺影と、毛糸で編んだピンクのブタさんの人形を持っていました。お勤めがはじまるとその遺影を阿弥陀さんの前の敷居に置き、ブタさんの人形を膝の上に載せて、小さな体を丸めるように手を合わせて、しずかにお参りしていました。

 後から副住職さんに聞くと、遺影のおばあちゃんは寺から嫁がれた方で、お寺に遊びに来ては、いつでも子どもたちにアイスクリーム、飴玉などのおやつをもって来てくれて、昔ながらの手まりや人形などを作っては子どもたちにプレゼントしてくれた、やさしい方でした。
 そのおばあちゃんが半年前に亡くなり、お寺でお葬式をした後の、四十九日、満中陰の時、お父さんである副住職さんは、まだお参りすることの意味が分からないお嬢さんに、「今日は、死んだばあちゃんのお参りの日だよ。お菓子やお人形さんをたくさんくれて、やさしくしてくれたね。感謝して、『ありがとう』って、参ろうね」とやさしく諭して、お嬢さんに声をかけたそうです。するとその日以来、毎朝、お朝事には仏間からおばあちゃんの小さな遺影を持ち出し、自分の部屋からはおばあちゃんにもらったお気に入りのブタさんの人形を抱いて参るようになったというのです。

 このおんなの子は、四十九日のお参りも、毎朝のお勤めも何の分別もなく、お父さんから教わった通り、素直に「おばあちゃん、ありがとう」と、仏さまに毎日、まいにち手を合わせているのです。毎日、まいにち手を合わせ、亡くなったおばあちゃんと出遇い続けているのです。やさしくしてもらった記憶を大切にしながら、いつでも「わたし」という存在がすぐそばにいる人たちだけでなく、先立って行かれた人たちから願われ続けていることを、このおんなの子は知っているのでしょう。彼女にとってナムアミダブツとお参りをする場所は、亡くなったおばあちゃんと自分自身とをつなぐ場であり、わが身にかけられた深い願いを聞きつづける場所なのだと思います。

  前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲ほっす。
  無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。
                        (『真宗聖典』 四〇一頁、『安楽集』)

 道綽禅師のお言葉が聞こえてくるようです。

(南勢一組・源慶寺住職 二〇一三年五月中旬)

013浮草のような私

山口 晃生

 三重教区が掲げる御遠忌スローガンは「共に、大地に立たん」であるが、私自身本当に自分の足で大地に立っていると言えるのであろうか。過去にこんな出来事があった。

 二五年も前になるが、体調不良が続く母を一度詳しく診てもらったらと私立病院へ連れて行った。検査の結果、「肝臓ガン」の末期で余命一ヵ月との診断。それを聞いた時は頭が真っ白。「これは夢だ。そんなはずがない。今まで病気と縁もなく毎日畑仕事をしていたのに突然あと一ヶ月と言われても信じられない。間違いと違うか。否、最新医療での診断や間違うはずがない。でも誤診であってほしい」と、寝ても覚めてもそんなことが頭から離れず、仕事も手に付かない。

 そんな時決まって友人・知人から「あの神社に参ったら病気が治った」とか言われると、目に見えない何かがあるはず、奇跡が起こるかもしれないと、言われるままにお参りもした。
 そんなどうにもならない事を自分で何とかしようと、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、全く地に足が付かず、浮草のような日々が続いた。
 しかし、そんな事で末期ガンが治る筈もなく、約二ヵ月後、「ありがとう」の言葉を息子の私にではなく妻に言い残し、お浄土へ還って行った。

 愛する人と別れる悲しみの度合いは、その人から受けていた愛の大きさに比例すると言うが、母との別れは私の人生の中で一番辛い苦しい出来事だった。
 それを知ってか知らずか、我が家は今、我々夫婦と息子夫婦、そして孫の五人で暮らしているが、何のわだかまりも無く、家族仲良く、特に嫁姑が仲良く暮らしているのは、母の最期の言葉「ありがとう」が今も生きているのか、母の死をご縁として受けた「特伝」と、その後の聞法を夫婦共々続けているお陰か、少しは地に足が付いたのではと思っている。
 これからも、仏法を主あるじとし、ありがとうの言葉がいつも口に出る、そんな家族であり続けたい。

(三重組・蓮行寺門徒 二〇一三年五月上旬)

012悲しみの声の中で

米澤 典之

 東本願寺の「春の法要」にお参りしました。
 東本願寺を創立された教如上人の四百回忌法要の表白に、こんな言葉がありました。
 「ときは二〇一三年、私たちはたくさんの悲しみや苦しみの声の中で生きています」という言葉です。今、この自分に、たくさんの悲しみや苦しみの声の中で生きている、という実感があるのかどうか問われました。

 法要後、総会所の「カフェあいあう」で目を馳せた展示パネルには、原発事故後、福島に夫を残し、幼い子どもと山形に避難されたお母さんの写真とメッセージがありました。
 親子や夫婦が一緒に過ごせない現実を知ってはいます。しかし、その悲しみの現実をしっかりと見て、苦しみの声を確かに聞いているのかどうか。見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしているのではないか。悲しみや苦しみを見たり聞いたりしないことが幸せだと錯覚しているのではないか。
 勇気をふりしぼって発する声に耳を澄まさなくてはなりません。

 「テツナギマーチ」という歌があります。

  「ほうしゃのう」がないばしょで あそびたい
  パパ ママ せんせい おさんぽにつれてって
  みんなでてをつないで あるきたいんだ
  みんなでてをつないで あそびたいんだ

 春の法要でも歌われたこの歌は、福島県二本松市の同朋幼稚園の園児らが作った歌詞を、名古屋の坊さんバンド「ぷんだりーか」が曲にしたものです。パソコンやスマートホンで「テツナギマーチ」と検索すると聞くことができます。

 子どもたちの願いを聞いていかなくてはなりません。
 悲しみの中から未来を想い描く声です。悲しみから目を背けず、苦しみの声を耳を塞がずに聞くことが、原子力発電所を黙って許してきた大人の責任です。それができてはじめて、この自分自身の悲しみや苦しみが自覚され、誰かに打ち明けることができるのかもしれません。

 悲しみや苦しみを遠ざけているうちに、自らの悲しみや苦しみも語ることができなくなってしまった私です。
 一人悲しむのではなく、ともに悲しむことをとおして開かれてくる世界がお念仏ではないでしょうか。
 
 「人と生まれた悲しみを知らないものは人と生まれた喜びを知らない」という金子大榮先生のことばが響いてきます。

(南勢一組・常照寺住職 二〇一三年四月下旬)

011生徒から教えられたこと

大橋 眞

 私は教員として三六年を過ごしてきました。
 その教員生活の中で多くの生徒と出会い、多くの生徒達から生き方を学ぶことがありました。
 その学びは、私の人生に多くの影響をあたえるものとなりました。今日はその中の一つをお話しさせていただきます。

 私が担任をしていたクラスの、とある生徒は、ある日、隣の学校と大喧嘩をして、仲間をかばい、指導措置を受けて停学処分になりました。
 私は、その生徒に自分がしたことを問いただしていくと、彼は、弁解もせず、何も話しません。しかし、自分がしたことは素直に認め、処分も甘んじて受けたのです。
 処分期間中に、彼は一度だけ、私に話しかけてきました。「退学したい」と。理由を聞いても何も言わないのです。

 数日が経って、彼は再び私に話しかけました。
 「こうして学校にいることが、両親に対して申し訳ない。もっとしなければならないことがある。母親は目が見えない。父親は耳が聞こえない。僕が生まれる時、僕を育てることができるだろうか、ちゃんと育つだろうかと両親は迷ったと思う。それでも、僕を生んでくれた。今度は、僕が両親の目や耳になり、見ていくことが必要なんです。
 こうして、僕だけが家の役に立たず、いい加減なことをしてしまった。こんな自分が嫌です。両親を支えていきたい。だから退学をしたい。」
 私は何も言えませんでした。彼は数日後、退学届を提出し、すっきりした顔で学校を去って行きました。

 私は、両親の耳や目となり両親を支えて生きることを決心した彼を立派だと思いました。自分の生き方や生きていく意味を自分と向き合い問いかけて答えを出していると思ったからです。

 自分の境遇を引き受けて、生きようとする彼の心に私は仏様を見ました。なぜなら、寺に生まれた自分の境遇を受け入れられていなかった自分を教えられたからです。
 私は、彼の自分の境遇を引き受けて生きるということに励まされて、その後も住職を続けることができました。
 今でも私は、両親とともに暮らしている彼のことを思いながら、今の自分の生活を生きています。

(員弁組・眞養寺住職 二〇一三年四月中旬)

010伝えていくということ

三枝 公子

 日中、お寺にいると、訪ねてこられた門徒さんから地域の歴史についてのお話や最近起こった出来事など、色々なお話を聞かせていただきます。ひとしきりお話をされた後、にこにこされて帰っていかれるのを見送ります。
 あるおばあさんは、毎回のように「今日とも知れず、明日とも知れず」と、『白骨の御文』をそらんじては年を取ってしまったことを嘆かれていました。最初はあまりわかりませんでしたが、子どもが大きくなるにつれ年齢を意識するようになり、今はもう亡くなられたそのおばあさんの言葉を思い返すと、すごいなあと思います。きっと暗唱できるほど『御文』に親しんでおられたのでしょう。そのような方は私たちの世代や親の世代ではあまりおられないように感じます。

 若い人たちはインターネットなどで情報を取り出すことは簡単にしますが、その情報が正しいかどうか判断する基準を自分の中に持っていません。判断する基準は自分たちの生活を通して見えてくるものだと思います。

 思えば子どもの頃、私の実家にはお内仏がなく、両親の実家に里帰りした時に祖母が朝夕に手を合わせている横に並んで手を合わせたことが思い出されます。子どもの頃に大人が手を合わせている姿やお給仕の様子を自然に見ることができると、そのようにするものだと身についていくのかもしれません。

 また、別の方からは「近ごろの子どもは話を聞かない」、「やるべきことがわかっていない」、「言っても聞かないからいうのをあきらめたい」というような意見を伺うこともあります。私もまた「近ごろの親」なので、耳の痛いことですが、「言っていただけるということはありがたいこと」と思っております。
 
 大人の世界は効率を求められるので、子どもが自分のペースでやっていることがもどかしく、ついつい口を出し、手を出してしまって、かえって子どもの成長を妨げてしまうことがあります。だから、子どもがやるべきことに気が付かなくなってきているのではないかという気がしています。

 私の世代も、子どもの時にできないことを大人からいろいろと言われ、うるさく感じていました。年を経て、ああ、あの時に言われたのはこのことかと、助けていただいていたということが後になってわかって、もう少ししっかり話を聞いておけばよかったと思うこともたくさんあります。

 言われていなければ後から気付くこともできません。伝えてもらわないと何もわからないまま、後につなぐこともできません。
 うるさがられるとか、嫌がられるとか考えずに、大人世代は次の世代に対して伝え続けていただきたいと思います。

(桑名組・空念寺坊守 二〇一三年四月上旬)

009空過 ― 空しく過ぎるということ ―

池田 徹

 我々は自分の段取り・思い通りに行かない時に、「空しい、残念無念」と言いますが、「空しさ」とは、たとえ、すべてが私の思い通りなっても「空しい」というのです。「空しさ」とは、気分の問題でなく、私の生き方に関わる問題です。

 「空過の生」の根っこにあるものは「他者不在」ということです。すべてが「我が思い・我が世界」しかないのです。他者がいないのです。だから根本気分は、孤独感、寂しさです。日常生活は忙しさに追われ、あまり深く考えないようにしていますが、生きる主体・生き方の質が変わらなければ、いくら欲望が満たされても、たとえ思い通りにいったとしても、人生に対して満足や深い納得は得られません。

 私という存在、「いのち」は、「願い」「祈り」を持っています。その願いを言い当てられ、その深い願いに目醒めて生きていくことが、空過の人生を超えていく道なのです。同時に、それは空過の人生の原因を、徹底的に見抜く視点を賜ることです。

 その視点、それが聞法であり、「教え」こそが主体となるのです。具体的に我々の生きる現代社会は経済至上、能力、成果主義が生み出す人間の商品化。手段を選ばない競争社会。むき出しの暴力。心の病。人間不信。原発問題など、強い不安感を持たざるを得ない時代ではないでしょうか。

 まさにこの現実を「教え」は、三悪道と言い当てています。
 三悪道は地獄・餓鬼・畜生というあり方です。地獄とは、通じ合わない、対立的、孤独の生。餓鬼とは、欲望の無限追求による人間の道具化、進歩という名の暴力。畜生とは、主体的自己の欠如、操られ、踊らされる情報化社会。徹底的自己関心です。

 まさに我々の現実は三悪道ではないでしょうか。「他者」が「いのち」がまったく見えていない私の姿があります。
 この事実に、「驚き」、「傷み」、「悲しむ」こころから、深い願い、祈りが与えられます。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一三年三月下旬)

008正 見

本多 力

 「どうして、ウサギさんが、屋根の上に乗っているんですか?」
 これは、一〇年ほど前に、私が住職をしているお寺に社会学習でやって来た小学生の女の子が、私に問いかけた質問です。その女の子は、梵鐘堂の屋根の四隅に取り付けられている、ウサギのような姿をした動物の瓦に興味を持ったようです。

 私は、その女の子に質問されるまで、その動物をかたどった瓦が何を表そうとしているのか、あらためて考えたことが一度もありませんでした。そこで、その瓦が何を表しているのか人に聞いたりしましたが、結局、確かなことは分かりませんでした。

 眼を開けば、どこにでも教えはある、と言いますが、まさに、この女の子は、そのことを教えてくれたように思います。
 親鸞聖人が『正信偈』に「覩見諸仏浄土因」と述べられているように、まず、物事のありようをつぶさに見るということが大切なのでしょう。見るということを通して、「五劫思惟之摂受」と、よくよく考えるということがなされていくのでしょう。

 しかし、「邪見憍慢」なる私たち人間は、自分の思いにとらわれて、なかなか物事を正しく見ることができません。それどころか、自分の興味が無いものは見ようとしなかったりして、目の前にあるものですら見ていなかったりします。無関心でいることが、私たちの心の闇、世の中の闇を深めていっているのではないでしょうか。

 『仏説無量寿経』にも、「開彼智慧眼(かいひちえげん)滅此昏盲闇(めっしこんもうあん)」(『真宗聖典』二五頁)と説かれています。感性を研ぎ澄まし、眼を見開いて、物事や世の中のありようをよくよく見ていく。そうすることによって、浄土真宗のみ教えを聞思していく身となっていく。

 そのことを、あの時の女の子の問いは、私に気付かせてくれたように思います。

(南勢一組・玄德寺住職 二〇一三年三月中旬)