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031ナムちゃんのこと

伊東慧明

今からちょうど2年前の11月のことですが、生後3ヵ月ほどの子猫が私たちの家族の一員となりました。

それはご門徒のある方が会社から帰ってみると、車の下のシャフト付近で鳴き声がする。何処かで、誰かが車に捨てたのか、いろいろ分からぬままに時が過ぎ「ともかくお寺で飼ってください」となりました。ご門徒の奥さんに「名前は?」と尋ねますと「ココアです」と。とっさに私はあのコーヒーや紅茶などの飲み物を連想しましたが、そうじゃなくて「子猫ちゃん、あなたはどうしてここにおるの?どうやってここに来たの?ねえ、ココちゃん」と話しかけていて、やがてそれが「ココア」になったのだと。そして、またそれは子猫から言えば「ここはいったい何処でしょう」と。

ちょうどその頃、お寺の報恩講が勤まることになっていました。それで子猫ちゃんがお寺に来るのは、それが済んでからということにして、それまでに名前をこれからの長い一生に相応しい名前を考えよう、となりました。

そして、お寺に来てくださっている女性の方たちと、あれこれ話しておりますうちに「お寺の猫ちゃん」そして「報恩講の猫ちゃん」「そうだ、ナムアミダ仏はどうかしら」「そうだ、そうだ、それがいい」となりまして、フルネームは「ナムアミダ仏」略して「ナム」愛称は「ナムちゃん」ということになりました。

あれからもうはや2年、赤い紐の首輪をつけてもらって可愛かった「ナムちゃん」も今ではすっかり大人です。時の流れの早いこと、無常迅速を感じながら、今日もまた「ナムよ」「ナムちゃんよ」と、その名を呼びながら過しております。

南無は帰命です、帰命無量寿如来です。 帰命は南無です、南無不可思議光です。

030落とし穴

岩田信行

お墓のことで質問を受けました。聞けば、テレビ(番組)でお墓の正しい参り方など、H・Kさんがこと細かく指南されたとのことでした。

以前も先祖の祀り方を指南して、写真の掛け方の手ほどきがあったそうです。その時も「何度言っても埒があかなかった仏間の写真の位置が様変わりした」と名古屋のお寺さん(友人)が嘆いていたのを思い出しました。影響力、はなはだ甚大のようで「なかなかイイこと言うぞ!」という評判も耳にします。H・Kさんばかりでなくテレビなどでも、M・Aさん、E・Nさんも人気で、前世を語り、怨霊や守護霊など霊魂の話、星回りの運命論やそれに基づく人生論など、耳目を集めている模様です。

ところで、阿弥陀の本願に第5願から第10願に「六神通」が誓われています。いわゆる「神通力(じんつうりき)」のことです。

もとより、最後の第10願「漏尽智通(ろじんちつう)の願」が「無我」仏智眼をあらわして、この六神通の要になります。他の五神通、これは外道(げどう)にも通ずる「通力」と言われますが、それらが仏智の裏打ちをもって「宿命智通(しゅくみょうちつう)」「天眼智通(てんげんちつう)」「天耳智通(てんにちつう)」「他心智通(たしんちつう)」「神足智通(じんそくちつう)」と古来称され、今日の私たちがイメージする「超能力」と質を全く異にしています。

それは決して空中を浮遊できるなどと言って、不思議な霊力(パワー)を誇示したり、前世を云々して他人の心を見通し手玉にとって思うままに人を操ったり、ということではありません。しかし、私たちにとっては、マジックと分かっていても物が消えたり現われたりすると「不思議だ!」とわくわくしたり、思わしくないことが続いて「どうしたんだろう?何かあるのかなぁ」と思っているところへ「霊が見える!霊が憑りついていますよ」と言われると「そんな馬鹿な」と思いつつも、どこか落ち着けずにモヤッとしたものが残ってすっきりしないというのが私たちではないでしょうか。

しかし、マジックにはちゃんと「タネ」があるように、前世や霊魂の話、運命論にはまっていく「落とし穴」がちゃんとあります。

さて、さてH・Kさんの手玉に取られていく、その落とし穴。しっかり見抜く眼を聞かしてもらいましょう。

029お彼岸

大谷麗子

本堂の裏の香部屋にいますと道を通る人が足を止めて、道の向こう側の畑の人と大声で話している声が風に乗って聞こえてきました。

「何蒔いとるの?」

「それが彼岸に入ったで蒔けやんのさ」

「あれ、あんたとこ門徒やろ、門徒の人らはそんなこと気にせんのやと言うて、皆蒔いてやないか、私ら禅宗の者も真似しょうかと言うとったとこやのに」

といった話でした。

山間僻地の閉ざされた土地に住んでいるので朴訥(ぼくとつ)で素直な人が多く人の言葉はそのまま受け止めます。世間が狭いので回りを気にし過ぎる欠点もあり、迷信の温床でもあります。迷信と分かりきっていても昔からしていたことは止められません。

常に人の目を気にしますから、彼岸に種蒔きができないと言った人は相手が他宗の人だったから気を遣って言ったものと思われます。それが反対に私たちも真似たいと言われさぞびっくりしたことでしょう。

門徒数が他宗の三分の一程しかないこの土地では、こんなことに気を遣う人もいるのかと胸が痛みます。

でも、何故この土地に彼岸に種蒔きをしたらいけないという言い伝えがあるのでしょう。彼岸の頃は冬野菜の種蒔きに一番いい季節なのです。きっと畑仕事は毎日のことだから彼岸にしなくてもいい、お寺で彼岸会が勤まっている、種蒔きなどしていないでお寺にお参りに行って来いと言う姑の言葉が「彼岸に種蒔くな」というようになっていったのだと思います。

今のこのような現実の姿を見越したように親鸞聖人は『悲歎(ひたん)述懐』の和讃で次のように詠まれています。

浄土真宗に帰(き)すれども

真実の心(しん)はありがたし

虚仮不実(こけふじつ)わが身にて
清浄(しょうじょう)の心(しん)もさらになし

改めて身に深くいただきたいことでございます。

028ほんとうの自分

渡邉美和子

今年は暑い夏でした。一番下の息子も大学生になり一人暮らしを始めたので、子どもたちはお盆に帰って来ただけで、静かな食卓を夫と二人で囲んでいます。その私の目の前に真宗教団連合発行の法語カレンダーが掛けてあります。今まで気に留めたことも無かったのに、この8月の法語が気になって毎日食事の時に目に飛び込んでくるのです。

ほんとうの自分に 出会えない人生はむなしい

ほんとうの自分って何だろう、自分は自分でないのかなぁ、46年間生きてきた人生を、私はどうやって生きてきたのかなと、ひと月の間に自問自答する毎日でした。

わがままな自分や怒っている自分、思い通りになっていれば機嫌が良くて、思い通りにならないと機嫌が悪くなる。その私が子育てや介護をさせてもらって、人間として生かされてこの年まで来てしまいました。何処に本当の自分があったのでしょうか。すべてが私だと思うのですが。

「虚しい」を辞書で引くと「意義のあるもの、喜びを与えてくれるものが何もない。やってみたところでその甲斐が無い」と載っていました。

子どもたちは、たいへんさの何倍もの喜びや楽しさを私に与えてくれたし、介護も父や母のおかげでやって良かったと思うことができました。その子どもたちも手を離れ、父や母ももういません。これからの自分はどうしたらいいのか。昨年の名古屋御坊に林憲淳先生の言葉で「人間は一生かかかっても絶対に遇わなければいけない人がいるんです。けれどもなかなか遇えない。それは本当の自分なのですよ」と話されたと載っていました。

本当の自分に出会うのは難しいことのようです。ほんとうの自分に出会えるよう聞法していけたらいいなぁと、夏の終わりに思ったことでした。

027五濁悪世(ごじょくあくせ)の有情(うじょう)

黒瀬達昭

かかりつけの総合病院に「あなたが赤ちゃんを選んだのではありません。赤ちゃんがあなたを選んで生まれてきたのです」という壁紙が貼ってあります。昨今、幼児虐待の痛ましい事件が後を絶ちません。この壁紙も、幼児虐待や育児放棄が社会問題となる中で張り出されたものなのでしょう。

親鸞聖人は私たちを、お釈迦様の説かれた教えが衰退し(末法)五つの濁りの中に生きるもの(五濁悪世の有情)だと指摘されています。「五つの濁り(五濁)」とは人の心が邪悪になり(衆生濁[しゅじょうじょく])、自分の悪に気づかず他人の正しさも認めず(見濁[けんじょく])、何につけても貪り・怒りの心を起こし(煩悩濁[ぼんのうじょく])、慈しむことを知らず自分の命も他人の命も粗末にし(命濁[みょうじょく])、ついには時代そのものが悪に満ちていること(劫濁[こうじょく])です。まさに現代そのものではないでしょう。
さて、では先ほどの壁紙の「赤ちゃん」を「阿弥陀如来」に置き換えたらどうなるでしょう。「あなたが阿弥陀如来を選んだのではありません。阿弥陀如来があなたを選んで生まれてきたのです」となります。

阿弥陀如来は、私たちが頼む頼まないに関わらず、濁り迷い続ける私たちの姿を大いにに悲しまれ「すべての生きとし生きるものを救い、浄土に収めとる(摂取不捨[せっしゅふしゃ])」という願いを立てられて、私たち一人一人の前に現われてこられたのです。つまり阿弥陀如来のお目当ては誰であろう「この私」なのです。しかし私たちは、阿弥陀如来のお心どころか、私自身がこの濁った時代を作り出していること、それと同時に心の一番深いところでは常に救いを求め続けていることにすら気づきません。

本当の私を照らし出すもの、それは真実で清らかなる教えでしかありません。仏法に我が身を尋ね、仏の智慧に照らされてはじめて、私は私たりえるのです。そして、阿弥陀如来の悲しみに触れることができた時、私の計らいを超えて「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てくるのでしょう。

026言葉に学ぶ

荒木智哉

私たち人間は言葉で迷い、目覚める存在です。例えば、私に対して向けられたある一言でその人に疑いをもったり、その人を信じられなくなります。一方で私の心に強く印象に残った一言が人生を生き抜いていく上での大きな支えになるということもあります。

私がここ数年間、自分なりに続けていることなのですが、自分の心に響く言葉、強く印象に残った言葉を書き止め、残しておくことにしています。最初はわずかだったものでも今では膨大な数となりました。後から読み返してみると私が感じていたこと、疑問に思っていたことなど、その時々の私そのものがそこにあることに気づかされました。その中でも特に心に響いた言葉は「必要なのは勇気ではなく覚悟」という言葉です。

これは自分自身が思い悩んだ時、真っ先に頭の中に浮かんでくる言葉です。自身が困難な状況に立たされた時に、今までは自分の外にあるものを変えることで解決を求め、状況を自分の都合にいいように変えようと行動する、そういう勇気をもつことが正しいことなのだと思い込んでいました。いつも困難な場面から逃げ出すことばかり考えており、置かれた状況や悩んでいる自分を見つめることが二の次となっていたのです。自分の足元がしっかりとしていないのに、次の一歩を踏み出すことなどできはしませんし、もし踏み出したとしても同じような不安定な道を歩き続けることを繰り返すだけで、根本的な悩みの解決とはなっていないのです。つまり、自分の置かれた状況から逃げ出さずに、しっかりと自分を見据える覚悟をもつことが大切なのだと、この言葉から気づかせてもらいました。このようにある言葉によって自分自身が見失っていたこと、今までに考えていたことが実は思い違いだったということに気づく、これこそが言葉に学ぶ生活ではないでしょうか。

025「正しい答え」という凶器

山田有維
 人から悩みや苦しみを打ち明けられたら、どのような回答をしようと思いますか。
 私は大学生の頃、友人から持ちかけられた相談に「一般的に正しいこと」を言って答えました。私は私なりに友人に向かい合って、一生懸命考えた答えでした。しかし、友人からは「あんたの言っていることは正しい答えやと思う。自分もそれが正しいことくらい分かっている。でもな、それが正しいと分かっててもそうできん自分がいる。そうできん自分にイライラしたり絶望したり焦ったりする。それを少しでもええから分かって欲しい。共感して欲しいと願う。でも、あんたには私のそういう苦しみや痛みは分かってもらえんのや…」と言う言葉が返ってきました。
 最近、私は今自分が抱えている問題に押し潰されそうになり、友人に相談しました。すると「正しい答え」が返ってきました。その時、私は「そんなことやない。なんで分かってくれへんのや」と思いました。悔しさと悲しさと虚しさで心が張り裂けそうになりました。「正しい答え」がとてつもなく重く冷たく尖ったものに感じられました。私は「正しい答え」という凶器を振り回してきました。一生懸命相談に乗っていたつもりが、実は凶器を友人に突きつけてきたことに気づかせていただきました。
 私たちは頭では分かっていても、どうしても心が納得しないことがあります。「正しい答え」と「そうなれない自分」の間で苦しむことがあります。こんな時「正しい答え」は苦しんでいる人をさらに傷つけてしまうこともあります。「正しい答え」ではなく、人の温もり、安心や共感を必要としているのです。
 目の前の人が今何を悩み、何を求めているのかを理解することは、決して容易ではありませんが、少なくとも悩み苦しんでいる人の気持ちに真摯に寄り添うことができたらと思います。

024誕生死

藤岡真

少し前のことですが、妊娠途中で流産したのでお経を上げて欲しいとの依頼がありました。真宗では水子供養はしないのだが、と思いつつもお引き受けいたしました。そういえば、私には出産後間もなく亡くなった兄がいたそうで、子どもの頃その存在をはっきりと知らされていなかったが、両親がその法事を勤めるかどうかを相談していたことがありました。また、その兄が無事に成長していれば、私は生まれてこなかっただろうを言われた時には、子ども心にショックを受けたものでした。

ともあれ何かの参考になればと「誕生死」という本を読んでみました。この本は、出産前後に子どもを亡くした父母が実名を明かしてその気持ちを綴ったもので、そのあとがきには次のように書かれています。

英語では、お腹の中で亡くなったケースを”still born”と言います。日本語では単に「死産の」と訳されますが”still born”には「それでもなお生まれてきた」という深い意味があり、「死産の」という日本語では、あまりにもそぐわないと私たちは感じてきました。お腹の中で亡くなってしまった場合は、戸籍にも残らずその存在が無かったことになってしまいます。でも、私たちの子どもは、どんな短い命であろうと確かにこの世に生まれたのです。たとえ子宮という小さな世界から、生きて出てくることがなかったとしても、あるいは生まれてすぐに亡くなったとしても、私たちにとっては確かに我が子は誕生したのです。このような私たちの思いを一言で伝えられる言葉が「誕生死」なのです。

この本を読んで意外に思ったことは赤ちゃんを亡くした母親と友人との気持ちのズレが大きいことです。友人が慰めの気持ちを込めて「がんばってまだ若いんだから」とか「今回のことは忘れて、また次ぎ産めばいいじゃない」という言葉は何の力にもならない。かえって「がんばらなくてもいい、悲しい時泣きたい時には泣けばいい」と言った医師らの言葉に安らぎを感じるとのこと。母親としては、赤ちゃんのことを忘れないで欲しい。何らかの形で記憶しておいて欲しいとの思いが強いようです。たとえ生きていた時間が短かったとしても、たとえお腹の中だけの命であっても、一つの命としては何ら変わらないということでしょう。

さて、約束の日がきて読経の後には、この本の紹介をするだけにし、安易な慰めの言葉でかえって相手を傷つけることにないように努めました。杓子定規に水子供養はしないのだと単に申し出を断るのではなく、何故そのような申し出をされるのかを考え直してみることも大切であると教えられたことです。

023釈尊に学ぶ

石見孝道

お釈迦様は、今から2500年前に真理(仏法)に目覚めて仏陀(仏様)となられました。

元々「仏陀」という言葉には「真理に目覚めた人、そして真理に目覚めさせる教えを説く人」という意味があります。ですから、お釈迦様お一人が「さとった」ということだけで終わってしまうのならば、お釈迦様は「仏陀」とは言えません。お釈迦様の教えによって、他の人が「さとり」を得ることがあってこそ「仏陀」が誕生したと言えるでしょう。

お釈迦様は、実に8万4千の法門を説かれたと伝えられています。また、その説法は「対機説法」であったと言われます。「機」というのは「人」のことです。その人に対して法を説く、つまり、同じ一つのことを伝えるのにある人にはこう言うが、別に人には違う言い方をする。その人に対して、最も通じる教え方をされたということです。

人間は顔も違えば能力も違う、感じ方・考え方も違い、誰一人として同じ人間はいません。そのことをよくよく承知の上で、お釈迦様はお一人お一人に向き合っていかれたのです。それは「他の人もさとりを得て共に救われて欲しい」という大きな願いがあったからこそできたのでしょう。願いが本物ならば、どんな苦労も苦労にはならず、逆にその苦労がいよいよ自分を磨く尊いご縁となるでしょう。

さて、私たちはいったい何を願いとして生きているのでしょうか。案外、自分だけのちっぽけな願いを固く握っているのかもしれません。しかし、このことのためならと、自分を捨てることができるほどのものに出会うのならば、その人の人生は本当に生きたものとなるのでしょう。「生き甲斐」と「死に甲斐」は表裏一体です。そういうものに出会うことがなければ、人生はただ空しく過ぎただけで終わってしまいます。実に、お釈迦様は「完全燃焼できるほどの命を生きて欲しい」とこそ願っておられたのではないでしょうか。

またそれは、時代を超えて現代を生きる私たちにも通じる願いなのでしょう。人間は苦悩する存在です。苦悩するからこそ人間と言います。苦悩が無くなるのが救いではありません、苦悩を縁として我が身を知り、いよいよ大いなる願いに立ち返るのです。

終わることのない歩みをいただく、それが人間に生まれた意義ではないでしょうか。

022子ども奉仕団に関わって思う「こども」

藤岡恵子

昨年から本山で行われる『子ども奉仕団』にスタッフとして参加しています。今年も参加するわけですが、その関わりの中で少し思うことをお話させていただきます。

暑い夏休みの最中に全国から参加を募って行われる恒例の奉仕団です。「今の子ども像」に興味がありスタッフとして関わっています。スタッフの中では平均年齢を上げているわけですが、若者の考え方など、自分が若かった頃との比較ができたりして、楽しみながら日々を過しています。

さて、昔の子どもとの違いというと「選択肢の多少の違い」ではないでしょうか?昔は情報というものは自分で見つけないと自分のものにならなかったのに比べ、今は、TVにPCの普及に伴い向こうから情報がやってくる時代です。はたして、このような現象に今の子どもたちは対応できているのでしょうか?疑問ですね。

向こうからやってくる情報に疑問を抱くことのできる子どもは考える力が身につくでしょう。そうでない子どもは善いことも悪いこともそのまま受け入れてしまうことになるでしょう。

子どもたちと二泊三泊一緒に生活していると、個々の家庭でのしつけや学校で先生から習ったことなどが子どもを通して見えてくることもあります。例えば、トイレのスリッパの向きとか、食事中のマナーとかに自然に現われるのです。しかし、子ども同士の会話や生活しているうちに子どもたちの目が輝いてくる何かが生まれるのを実感できるのです。

子どもに限らず、何処に行っても、できが善いとか悪いとか比較されながら生きていくわけです。

子どもと接する中で何を注意しないといけないかというと「劣等感をもたせないこと」だと考えます。「自分は馬鹿だから」と思うようになると自分から積極的に勉強や友だち作りをするということが、自然に無くなるということになりましょう。

大人の言動や行動はもちろんですが、子どもに対する教育がいかに大切かということになります。大人が「善し」と思ってしまっていることが、本当は善くないことでも子どもは大人がしているから善いことで、しても善いのだと判断してしまいます。

このような子どもにとって暮らしにくい世の中ではありますが、この本山で行われる子ども奉仕団において「ほとけの子としていきる」ということが、少しでも子どもたち一人一人の心の中で芽生えてくれることを願いながら、今年の夏も完全燃焼したいと意気込んでいます。