004 別離がひらく「更なる出会い」

尾畑 潤子

毎年、友人たちと岡山県にあるハンセン病療養所「長島愛生園」を訪れるようになって二十五年になりました。その訪問を通して、深くご縁をいただいてきたお一人に三重県出身の田端明さんがいます。田端さんは、強制隔離の法である「らい予防法」によって、戦争の最中、一九四〇年に二十一歳で「長島愛生園」に入所しています。それから七十七年の日々を短歌、俳句、詩など、折々に紡いできた言葉の数々を『石蕗の花』シリーズとして発表し、私も出版のお手伝いをさせてもらってきました。

田端さんの作品には、ハンセン病とわかった時の無念の涙、断ち切られる思いで故郷を後にした離別の涙。入所して五年、一夜にして視力を失った絶望の涙。やがて『歎異抄』との出会いによって、死から生を見つめていく人生に変わっていった歓喜の涙。涙を軸として田端さんの歩みが綴られています。そして、次のように詠っています。

舌読の点字経典血に染めて わが人生の未来を探る

(『ハンセン病の苦悩と信心』田端明著)

病気の後遺症によって指先の感覚がなくなって、舌で点字の経本を読み続けてきた日々。教えとの出会いから、田端さんは生涯のご用として「ハンセン病を正しく理解していただくために一分でも一秒でも長生きしたい」と。その言葉そのままに、各地での講演や多くの作品を通して、私たちにハンセン病に対する正しい認識と理解を語り続けてきました。

その願いを、私はどう受け止めてきただろうか?そう問い返されたのは、東本願寺発行『同朋』(二〇一七年二月号)誌の、歌人永田淳さんの言葉です。

俳句や短歌は自分だけで完結するのではなく他者と出会う場で初めて成立する「座」の文芸だと。その言葉に私は大きな衝撃を受けました。「長島愛生園」に入所を余儀なくされた田端さんのうたは、「らい予防法」廃止から二十二年、今なお、正しく理解されているとは言い難い私たちの社会のありようを問い、閉ざされたから、なお、開かれていきたい・・他者と共に開かれ続けていきたいという田端さんの「呼びかけ」がうたになっていたのです。

昨年十二月四日、田端さんは九十八歳の命を終えました。

「まだまだこれからですね」

笑顔でそう言った田端さん。別離からの更なる出会いが、今ここに開かれている。あらためてそう思う日々です。

(二〇一八年二月下旬 泉稱寺衆徒)

003 ある日の法事から・・・

泉 有和

少し前の法事で、全ての次第が終わり、皆で食事をいただいていたときですが、そのときの法話から連想されたのか、そのお宅のご親戚に「私は無宗教や」「先祖が仏教を大事にしてきたというが、それが何故かわからん」と言い出された方がおられました。その言葉が呼び水となって、回りの方もいろいろ話されだして、にぎやかな場になりました。

その時出た話に関わって、もう三十年ほど前になりますが、教えられて、自分なりに深くうなずいたことがあったので、その方々と次のような話をしました。

我々の日常の生活だけでは、何かもう一つ満足できない。こういう生活を生涯送って、そして終わっていく、そのことの為に生まれてきたとは、どうしても思えない。もっと確かな生き方、「あっ、そうだったのか。私はこのために生まれてきたんだ」という、そういう本当の生き方を願う、それを宗教心というのではないかと。

私たちは宗教とか宗教心というと、日頃の生活や意識とは違う、何か特別な宗教的な心情や意識、そういうものを思い浮かべてしまうけれども、実は、宗教を求める心というのは、そういう特別な心ではないんじゃないか。

私たちは、生まれてから今日までずっと生きてきて、今日も生き、また明日も生きていく。そしてそのことを、別に不思議とも何とも感じない。「生きるといっても、大体こんなもんやぜ」「人間とは何年生きてもこういうもんかなあ」と、日常の心、普段の心で思い込んでいるが、実はそうではないと思う。

宗教というと、何か特別で特定の宗教を一筋に信じなければならないとか、すぐそういうことになるが、そうではなくって、それよりもっと前の、我々が特別に宗教とも感じないような、私たちの根っ子にいつもある、「確かないのちを生きたい」、「本当のものに出会いたい」という、人間であるならば必ず願わずにはおれないという根源的な要求じゃないか。そうだとすると、私たちはすべて宗教的存在だと思う。

だから、親鸞聖人が「浄土真宗」とおっしゃるのは、そういう万人に共通する、「私は無宗教だ」と言っておられる方にも働いている、我々の最も根っ子にある「確かな生を求める心」です。決して、世間に多くある、何教だ、何宗だ、というものの中の、一つの宗派ではありません。云々。

その日一日、その時の会話を頭の中で反芻しながら、人間として生まれた以上、いかなる者も、国家を超え、民族を超え、思想を超え、政治的立場を超え、イデオロギーを超え、そしてあらゆる宗教を超えて、願わずにはおれないもの、それを親鸞聖人は「浄土真宗」というのだ一切のいのち生きる者が願わずにおれない世界を「浄土」というのですと教えられたことを、あらためて思い出したことでした。

(二〇一八年二月上旬 円称寺住職)

002 生かされて生きていく

林 恵美子

こんにちは 私は現在六十五才。元気なおばさんと云われています。

私が仏法に触れていて、よかったと思ったのは四十八才でガンを患った時です。全く青天の霹靂「えー。私が?」ガンの家系でもなく「なんでー?」という思い。そしてこれからどうなるんだろう…という不安。

二ヵ月入院していましたが、がんセンターでは死は日常茶飯事でした。同室で親しくなった人の容態が急変し個室に移され、翌日には亡くなる。またある人は治療の成果が出ず、どんどんつらい治療に変えていく…。「ここは死を待つ道場か」と思いました。

両親も健在、祖父母も長生きで病院には無縁の環境にいた私には全く別世界で、想像以上の恐怖でした。

その時、頭に浮かんだのが「他力本願」という言葉でした。自分の力ではどうしようもない事は、阿弥陀さんにお任せしよう。私はできるだけ、前向きに生きる事を心がけようと思いました。

いろいろな副作用もありましたが、今こうして元気でいます。

仏教讃歌に「生きる」という歌があります。

生かされて、生きてきた

生かされて、生きていく

生かされて生きていこうと

手を合わす 南無阿弥陀仏

(『生きる』作詞 中川静村)

この歌には忘れられない思い出があります。当時、教区合唱団に参加しており、退院して三ヵ月後、桑名別院の報恩講に私も出演しました。

この「生きる」を歌っていた時、ふと前を見ると本堂の一番前に座っていた父が目頭を押さえていました。その後本堂の後方を見ると同じように母が涙をふいていました。私も思わずこみ上げるものがあって、うつむくと楽譜に涙がポタッポタッと落ちました。それを見た両サイドの人ももらい泣き。順々に連鎖していきました。

この曲を知った事、そして一緒に涙して回復を喜んでくれる家族や友がいる事…。私はなんて幸せなんだろうと感謝しました。

病気になっていなかったら、分からなかった事、知らなかった事がいっぱいあります。「ここいらへんで、こいつは病気になった方がよかろう」という阿弥陀さんの計らいなんでしょうね。おかげさまで、今を幸せに生かせてもらっています。

(二〇一八年一月下旬 明圓寺門徒)

001 新年を迎えて

大町 慶華

新年あけましおめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、たくさんの方々にお力添えをいただき、心より感謝申し上げます。

本年も三重教区と桑名別院をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、今から六十二年前、宗祖親鸞聖人七百回御遠忌をひかえて、宮谷法含宗務総長が、「宗門各位に告ぐ」として宗門白書をだされました。その白書に示された内容は現代においても、わたしたちに呼びかけられているようでなりません。この白書の一部を引用します。

この憂うべき宗門の混迷は、どこに原因するのか。宗門が仏 道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからではないか。今日宗門はながい間の仏教的因習によって、その形態を保っているにすぎない現状である。寺院には青年の参詣は少なく、従って青壮年との溝は日に日に深められてきているではないか。厳しく思想が対立し、政治的経済的な不安のうずまく実際社会に、教化者は、決然として真宗の教法を伝道する仏法者としての自信を喪失しているではないか。寺院経済は逼迫し、あやしげな新興宗教は、門信徒の中に容赦なくその手をのばしてきている。教田の荒廃してゆく様は、まさに一目瞭然であるが、われらは果してこの実情を、本当に憂慮し、反省しているであろうか。まだ何とかなるという安易をむさぼる惰性に腰かけているのではないか。大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいながら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を覚える宗門になってきているのである。

(中略)

宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発すべき関頭にきている。懺悔の基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心である。混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、生々溌溂たる真宗教団の形成を可能にするものは、この懺悔と求道の実践よりほかにない。

(『宗門各位に告ぐ』宮谷法含一九五六年『真宗』四月号)

と宗門の現状を訴えかけています。

この白書を受けて同朋会運動が、提起され「家の宗教から個の自覚へ」とスローガンを掲げて同朋会運動をすすめてきたことです。しかしながら、今日の現状をみれば、六十二年前にだされた白書の内容と何も変わっていません。世の中は経済至上主義の中、人間関係の希薄化、自殺者の増加、いじめ、核家族化、独居老人の孤独死、過疎化など現代社会が抱えている闇に、なかなかお寺が対応できない現状であります。なんとかこの現状を打開するために、教区では『「一ヵ寺・一ヵ寺」の活性化を願って、<一人と出会う>』をテーマに教化委員会で検討しています。現代社会が闇に包まれているならば、まさしく宗祖は本願念仏の教えこそが「無明の闇を破する」と示してくださっています。大変な時代であるからこそ、一人でも多くの方に、お念仏教えが伝わるよう努力をいたしていきたいと思います。宗門白書の内容を常に、怠惰な自分への忠告とし、聞法精進してまいりたいと思います。

宗門は二〇二三年に、親鸞聖人御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年慶讃法要を、厳修憂する予定であります。先の御遠忌が住んで十二年後のことであります。この法要に向けて様々な計画が、現在宗務審議会で検討されていることであります。今年五月には答申され、内局方針が示され、内局巡回がおこなわれる予定であります。内容がしめされたならば、どうかご意見をくださるようおねがいいたします。

(二〇一八年一月上旬 三重教務所長)

024 私にとって「仏法聴聞」とは

池田 徹

二〇一七年五月に自坊で「親鸞聖人七五〇回会大法要」をお勤めさせていただきました。あらためて、私にとって親鸞聖人とは、念仏とは、仏法聴聞とは何かを考える機会となりました。

かつて学生時代に、「あなたは、なぜ親鸞聖人の教えを学んでいるのですか」と、問われました。「あなたの話を聞いていると、何も親鸞聖人の教えでなくても、いいのではないですか。要はこれだけのことを、〈知っている〉ということを主張したいのでは。だから、歴史でも、数学でも、よかったのではないですか」と。

持っている知識を披露する、自慢する材料としての親鸞聖人(仏法)ではないか、と問われました。念仏の教えを聞き学ぶ必然性が、あなたにあるのか? と問われた出来事でした。

たまたま浄土真宗の寺に生れた、という偶然の関係から「親鸞仏教」を知ったということであり、日蓮宗寺院に生れたら、私はたぶん「南無妙法蓮華経」といいながら、その流れの中で生きたのではないかと思いました。

「仏法」と言っても知識対象としての「文献」であり、「情報言語」でしかなく、自己正当化のひとつの手段であると知らされ、当時二十二歳の私は、「教え」を聞く必然性を尋ねることになりました。

その都度、「この問題に対して、念仏なのだ」、「この課題に対して、教えが必要なのだ」と、言ってはみるが、時間と共に、「私は本当に仏法を求めているのだろうか。私は教えを必要としているのか」、という思いが湧き上がってきたのです。

やはり「私は仏法を求めるより、我が意を通したい」そういう者でしかないことを知らされてきました。教えを聞く、聞かないにかかわらず、私の実相は、自己中心的に、「思い」に合う世界をひたすら求め、思いに合わない世界を嫌い、その「思い」が壊されることを畏れながら、その都度、落ち込んだり、浮かれたりを繰り返してきました。自己の評価を気にしながら主体を失い、時には横柄な態度に、時には周りに迎合しながら、仏法まで利用していく徹底した自己関心、自己保身、自己執着を生きてきました。

実は、この自己関心こそ、対立、不満、不安、孤独の原因であることを教えられてきたのです。

しかし、日常はこの自分(煩悩具足の凡夫)をいつも忘れて生活しています。仏法聴聞の場、生活の中での行き詰まりが縁となり、「教え」(呼びかけ)となって、私の閉鎖性、独善性を知らせてきます。

「教え」は外側から、私の迷い、「実相」を知らせると同時に、「他者の発見」という内実をもって私に届いてくるものです。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一七年十二月下旬)

023 独立者の共同体・僧伽の建立の願い

訓覇 浩

「独立者の共同体」、私がこの言葉とはじめて出会ったのは、学生時代、同朋会運動の願いについて学ぶ中で、僧伽建立という言葉と合わせて教えられた言葉です。また「独立者と独立者は感応道交する。その世界が同朋社会」だとも教えられ、私の中でもっとも大切な言葉の一つとなっていきました。そして、結婚式のスピーチなどを頼まれた時は、理想の夫婦像ということで、この言葉を得意になって紹介し、私自身もそういう関係を生きたいと願ってきたように思います。

しかし、寺に戻って五年の月日がたち、あえぐように日常を送る中で、私は、この言葉を、たいへん安易にとらえていたのではないかといま感じています。安易にというより自分勝手にとらえていたのではないか。私にとって独立者というのは、たとえ夫婦といえども、相手に縛られずに自分勝手に生きるということ、そして共同体というのは、でも困ったときには助けてくださいね、というようなものであったのではないかと思い知らされます。

では、私の上には、独立者の共同体というものは、無縁のものなのだろうか。それどころか、他者とつながって生きるということそのものが成り立つものだろうか、そういう疑念が強くなってまいります。

そのような時、朝日新聞の「折々のことば」という欄に、次のような言葉が紹介されているのが目に入りました。

なぐさめるのでも、抱きかかえるのでもなく、互いに共有しえない闇の、その共有しえないということの重さを共有していくということ

つながって生きるということについて語られた、七〇年代にウーマンリブ運動を闘った田中美津さんの言葉です。ここの「重さ」には、私は「悲しさ」という意味もこめて読ませていただきましたが、相手の存在を否定し、自分を正当化する、我の主張と依存のなかに生きる私のうえに、もし、相手とつながるということがあるとすれば、つながれない悲しみを共有する、そういうことなのではないかと。そして、そこで感覚させられる悲しみこそ、本願の方から私に向けられる、僧伽建立の願いの力によるものではないのかと感じさせられました。僧伽の建立という願いをわが想いでつかもうとした時、それは本来の願いとは全く異質なものとなってしまうのではないでしょうか。

現在、三重教区においても、一ヵ寺・一ヵ寺の活性化、本来化に向けての取り組みが始まっておりますが、その課題が、本願の方から向けられる僧伽建立の願いであるということを見失い、人間的願望や欲求のうえに見てしまった時、仏法に似て非なるものを仏法としてしまうという、もっとも大きな過ちをおかすことになる、そういうことをちかごろ思わせてもらっております。

(三重組・金藏寺住職 二〇一七年十二月上旬)

022 懺悔と讃嘆

片山寛隆

今年も親鸞聖人の報恩講がご本山で厳修され、全国からご門徒をはじめ、有縁の方々が上山されます。

親鸞聖人は法然上人を通して、仏さまの心、智慧と慈悲の心に触れられたことから、法然上人を「よき人」とおっしゃられました。

その親鸞聖人が法然上人をよき人と戴かれた生き方を問い尋ね、確認し合う法要が報恩講でもあります。

あの広い御影堂いっぱいに合掌され、お念仏の響きに会うと円融至德の嘉号のお念仏をということを感じられ戴くことです。

この広い空間で、生まれ育った環境も時代も違った人々がひとつに溶け合って正信偈を唱和する。

拝み合って生活する世界を浄土ということを金子先生は教えて下さっています。人と人との関係がギクシャクするというのはお互いが拝み合わないからです。

ある若いお客様が多いフードショップに入ると店員が一斉に「いらっしゃいませ」また用が済みお店を出るときには「毎度ありがとうございました。またのご来店を」という声を掛けられると、何か違和感をおぼえたことはありませんか。

こころからの言葉ということが言われます。

例えば、今日何か他者からものを戴いたりお世話になったら感謝を込めて「ありがとう」と言います。また、我が子を育てるときにそのように言える子どもに育つようにし、また他者に迷惑をかけたりしたときは「ごめんなさい」と素直に言える子どもに育つように願っているものです。

ある時、その幼い子どもが隣のお家に旅行のお土産を届けに行ったら「お土産をもらってすまんね」と言われたら「ハーイ」と言って帰ったそうです。

その幼い子にとって何もその言葉に違和感がなかったから「ハーイ」と返事をした。「ありがとう」と「ごめんなさい、すみません」は違ったことであるはずが、それが融合する文化が私たちが聞かせて頂いてきた「懺悔と讃嘆」ということではないでしょうか。

(三講組・相願寺住職 二〇一七年十一月下旬)

021 仏さまはいらっしゃるか、否か?

田代 俊孝

仏さまはいらっしゃるのか、いらっしゃらないのか、皆さんはどう思います

か。私は幼いころ日曜学校で「みほとけは まなこをとじてみなよべば さやかにいます わがまえに」という仏教賛歌を習いました。その時、いつも思っていました。眼を閉じたら何も見えないではないかと。

親鸞聖人は、『唯信鈔文意』という書物の中で、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえり。

(『真宗聖典』五五四頁)

とおっしゃっています。

色も形もなければ、どうその存在を証明するのか。でも、色や形がなくとも、あるとか、ないとか言っているものがあります。例えば、風です。風は色も形もありませ

んが、風があるとか、ないとかと言っていますね。

木がそよそよと揺れたり、戸がゴトゴトと音を立てれば、風があると言いますね。つまり、風のはたらきを通して風の存在を認識しているのです。仏さまも同じです。智慧とか慈悲というはたらきがあるのです。智慧とは、私が凡夫であることを知らせてくれるはたらきです。「智慧の光明」と光にたとえられます。それによって私は「無明の闇」を知らされるのです。

慈悲とは、苦を抜き楽を与えるというはたらきです。つまり、救ってくれるはたらきです。これも「摂取の心光」と光にたとえられます。智慧を得ることによって、迷いのもとである自身の勝手な思い込みが破られ、苦が除かれ、楽が得られるのです。

もともと、仏さまの根本は実体がないのです。だから、「如」つまり、「ごとし」と読まれる漢字で示されます。一如とも真如ともいいます。これを法性法身といいます。

その如からやって来る、はたらきかけてくるのです。だから、「如来」というのです。

『唯信鈔文意』に

この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして

(『真宗聖典』五五四頁)

と言われますように、具体的な形を持ったものによって、私にはたらきかけてくるのです。それが願いとしての形をもった阿弥陀如来であり、さらにその阿弥陀の無数の分身が諸仏です。阿弥陀とは一切の諸仏の智慧を集めたものですし、逆に、ガンジス河の砂の数のごとくの無数の智慧の形が諸仏です。諸仏とは、私を目覚めさせてくれるはたらきを持つものすべてです。

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛)

良寛は散っていく桜の花びらに仏を見ているのです。

ノートルダム洗心女子大の渡辺和子先生は「置かれた場所で咲く花に」と言われます。場所を選べない花が置かれた場所で精いっぱい咲いています。その花に自分の生きざまを学んでおられます。

金沢美術工芸大学の故高光一也先生は「仏の方を向いても仏はいない 汚い自分をみると仏に遇える」といわれました。自分で自分は見えません。汚い自分を自覚するということは、すでに照らしてくれる仏に出遇っているのです。

また、先立つ念仏者、私にこの道を教えてくれた亡き人もみんな諸仏です。気づけば私は諸仏のまっただ中にいたのです。

しかし、仏の存在にうなずけない人がいます。それは、光の中にいながらも、光が感じられない人です。それを仏智疑惑といいます。学ぶ心根のない人、聞かない人、聞けない人、それに「賢い人」です。賢い人は「知っている。知っている」と言って聞く耳を持っていません。そこにバリアがあります。そのバリアを、養老孟司さんが「バカの壁」とおっしゃったのです。

私が法を聞くところに「智慧の光明」としてはかりない無数の阿弥陀が来たり現れるのです。阿弥陀のはたらきを感じたとき、仏さまがましますと、その存在にうなずけるのです。

(員弁組行順寺住職 二〇一七年十一月上旬)

020 三つの「もとどり」を剃り捨てよ

山口 晃生

もう三十年も前の話で恐縮ですが、我が家の新築に際し、家財道具を整理していると、いかにも古い箱が出てきました。開けてみますと半紙を長く半分に折り、和綴じにした帳簿のようなものが出てきたのです。

その中の一冊を見ると、蓮行寺の現ご住職の兄さんに当る長男さんが、誕生した時の門徒からの「祝儀一覧」を書き留めたものでした。

当然の事ながら我が家はどれだけお祝いをしたのか気になり、めくって行くと祖父の名義で「金、○○円」と書かれています。他の家はどうかと一通り目を通した上で、「これは面白いものが出てきた。今度ご院さんに見せたろ」と喜んでいると、横から間髪入れず親父が「やめとけ」と声を荒げました。

何の事かと戸惑っていると、「お前、我が家がいくら寄進したか見て、他家より多かったから見せる気になったのやろう。もし他家より少なかったとしても見せる気になったか」と言われた時には返す言葉もなくそそくさと元の箱に戻しました。

法然上人は「三つのもとどり(勝他、名聞、利養)を剃り捨てよ」と言われましたが、五十年以上も前に祖父が寄進した浄財の額で勝ったという気持ちが起こり、しかも高額寄進者としての名前が孫の私まで有頂天にさせ、さらにご院さんにも自慢したいという自己中心の心で一杯、優越感に満ち満ちていたのであります。まさに「邪見驕慢の悪衆生」になっていた私の気持ちを親父の一言が打ち消してくれたのでした。

その後、ご住職の奨めもあり「特伝」を受講し親鸞聖人の御真影の御前で「帰敬式」を受け文字通り「三つのもとどりを捨て法名」を頂きました。あれから三十年。推進員として親鸞聖人の教えを聞かせて頂いております。

振り返れば「やめとけ」との父の一言が私の根性を正し、仏道の原点を教えてくれたのだと、父との思い出として今も脳裏に焼き付いております。

(三重組・蓮行寺門徒 二〇一七年十月下旬)

019 私の母へ

中角 徹

私には九十一才の父と、八十五才の母が今も健在です。父は週二回デイサービスへ行っていますが、母は四年前から特別養護老人ホームへ入所しています。その母について少しお話をさせていただきます。

二十才で父と結婚し、二十一才で私を産み、また妹二人を得て、三人の子どもに恵まれ、農家の嫁として朝早くから、日が暮れるまで毎日野良仕事をしていました。そんな両親は若い頃からお寺へはよく足をはこんでいました。特に母は聞法会にはかかさず、参加していた様で、お寺から帰ってくると今日のお話はとても分かりやすいお話だったと、よく私に内容を話してくれました。私がお寺に、いろいろと係わっているのも母の影響が大きかったのだと思います。

そんな母がある日突然、父に大声をあげ、暴力をふるう様になったのです。父に聞いても原因が分からないと言うだけで、その言動は徐々にひどくなり、家族には手がおえなくなりました。認知症の始まりでした。

その後、デイサービスを受けながら様子を見ていましたが、その間にも二回の軽い

脳梗塞を起こし、今の施設に厄介になっているのです。母からは笑顔が消え、車イスの上でいつも無表情です。面会に行く回数もだんだんと少なくなっている私ですが、若い頃、聞法会から帰って楽しそうに私にいろいろな話を聞かせてくれた母。それに引き換え自分は聞法会で聞いた話を、母に話したことは一度もありませんでした。もっといろんな話を聞いて、母に話してやりたかったと、悔やむ毎日です。

子どもの様になってしまった母ですが、きっとアミダ仏の世界で色々な話を思い出していることでしょう。そして私に無言でそのことを伝えてくれているのだと思います。今の時代、いつ自分がそして皆さんが認知症になってしまうかそれは分かりませんが、母の様に法話を聞きに寺に足を運び、少しでもアミダ仏の世界に近づける様、人を誘っていっしょに寺へ行きましょう。

(南勢二組・道專寺門徒 二〇一七年十月上旬)