022 金木犀の思い出

海野 真人

秋になるとうちの境内でも金木犀の花が何とも言えない芳醇な香りを放ちます。この香りを嗅ぐと、私は必ずこんな出来事を思い出すのです。

何年か前に私が年忌法要にお邪魔したお宅で、お参りに来ていた方が雑談の中でこんなことを言っておられました。「最近の金木犀はどうも匂いが薄くなった。前はもっと強く匂っていたのに」と。そして「これは酸性雨のせいだろうか?」とか「地球温暖化の影響だろうか?それとも知らない間に品種が変わったのだろうか?」等々いろいろな理由をあげておられました。でも、どうもスッキリしないご様子でした。それを聞いていたお相手の方が一言こんな風に言ったのです。「あんたなあ、それはあんたが年取って、鼻が鈍なっただけ!」と。その瞬間その方はパチッと手を打って「そうか!そういうことか!やっとわかった」と言われ、とてもスッキリとした明るい顔になられました。それを見て私は、「人が気づく」ということはこういうことだと思いました。

私たちは、日頃どういう訳か、知らず知らずのうちに「自分は変わらないし、自分は正しい」というつもりでいるのではないでしょうか。だから自分のことは棚の上において、いつも外に問題を見つけようとします。この場合で言うと「酸性雨や地球温暖化や品種」を疑うということです。自分に問題があるということには中々気づきません。しかし、今回「あんたが年をとって、鼻が鈍くなっただけ」という親しい方のキツイ一言で、問題が自分にあったと気づかされ、そして明るく解放されたのです。「年とって」の一言にカチンとくる人もいる中、この方は明るくスッキリした顔で「よくわかった」と感謝し、喜んでおられました。「気づかされる」ことによって明るく解放されるということを間近に見ることができて、こちらも思わず笑顔になりました。「報恩」というとつい難しく考えてしまいますが、意外と身近なところにあるのかもしれません。金木犀の香りが漂ってくると今もそのことを思い出すのです。

(中勢二組・法因寺住職 二〇一八年十一月下旬)