014 転(てん)

酒井 誠

仏教とはどのような教えなのか? 聞いてみますと無常とか涅槃という言葉を思い浮かべる方が多いようです。

では無常とはどのようなことでしょうか。人の死、移ろい変化してゆくことが無常であると言われます。その通りですが、それではあまりにも常識的すぎます。

無常、無我ということは、常や我という、私という存在を根拠づける、常にあって変化しない実体はない、ということです。他宗教では、私がここにこのようにして在るというありかたの根拠に創造神などの実体を立てますが、仏教はそういう実体を否定します。つまり私の存在には根拠がないのです。

そこで思い起こされるのは親鸞聖人の和讃

本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

(『真宗聖典』四九〇頁)

です。空しくすぐるということは、空っぽのまま終わってゆくことです。

私たちは、空っぽのままの人生や根拠のなさに耐えられません。ですから名誉や財産、家族などを手に入れては充実した人生であると思い込ませています。或いは歴史のある血筋や皇国史観を支えにします。しかしそういうものに価値をおいてもどこか満たされないのではないでしょうか。

そう言ってしまうと非常に暗い話になってしまいます。ですが無根拠なる存在である私が、空しく終わることのない人生を歩むことができるのです。なぜなら一人ひとり法蔵菩薩の魂、求道心を発す可能性を宿しているからです。

その手掛かりは親鸞聖人のご生涯にあります。親鸞聖人は自己を語らない人だと言われています。自分の血筋、手柄などは語りません。親鸞聖人の生き方は、そういう「もの」を頼りとしたのではありません。むしろどのような出来事をも人生にとって意味のある「こと」と受け止めてゆく道でありました。

辛く悲しい出来事に遭遇するのが人生です。当然愚痴も出ることでしょう。しかし意味のある出来事、尊い「こと」としていただいてゆく、そういう道が親鸞聖人はじめ念仏者によって既に開かれています。いつでも初事なんだよと受け止めていかれた先生方の姿も思い起こされます。大切なのは「もの」ではない。「こと」なのだ。そう受け止めなおさしめる力、本願力に触れるとき、既に功徳の宝海がこの自分自身に満ち満ちていると感じます。

ナンマンダブツと念仏するとき、教えに触れるご縁となった亡き祖父母や、よき師よき友の姿が思い起こされてきます。

(二〇一八年七月下旬 南勢一組・道淨寺住職)