021 報恩講に寄せて

伊藤 英信

久しぶりに、テレホン法話の依頼を受けました。十一月一日から十五日まで発信されますが、初日の一日は私の誕生日であります。日中戦争、太平洋戦争、そして戦後の貧しさや経済成長、伊勢湾台風や東北の大震災など、様々なことがらとの出会いの人生を歩んでまいりました。家族はもとより、様々な人々との出会いを通しての日々でもありました。親鸞聖人に「そくばくの業(ごう)をもちける身」(『真宗聖典』六四〇頁)というお言葉がありますが、八十余年の年月を今日まで生きてこられたことに不思議さを感じております。

さて、お霜月、ご正忌(しょうき)、報恩講などの言葉が、最近は私達の生活から見失われようとしております。そのことは、物が豊かになるのとはまるで反対のように思われてなりません。以前、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という言葉が真宗本廟(ほんびょう)の法要テーマに用いられたことがありました。このことが明らかにならない人生は、結局「空しく過ぎる」ということなのでしょう。

今、ふと今はなき米沢英雄先生の言葉が浮かんでまいります。「如来大悲のただ中に生かされている私たちではないか。太陽・月・雨風・宇宙一切の働きによって生かされて生きている点では、草木も虫も、犬や猫も同じなんだな。だが彼らは如来大悲によって生かされて生きていることを悲しいかな知ることはできないんだ。それを知ることができるのは人間だけなんだ。しかも、仏法を聴聞した人だけなんだ」と叫ぶように言われました。そして、犬猫同然の人間を真の人間にして下さる方々を師主知識だと教えて下さいました。日常の私にとって忘れがちなお言葉であります。

今月二十一日から始まる真宗本廟報恩講には、親鸞聖人のお姿と向き合いながら私自身の八十余年の人生を振り返り、その背景を憶念しつつ同朋の皆様と一緒に心の底から恩徳讃を歌わせていただこうと思っています。

(四日市組・本誓寺住職 二〇一六年十一月上旬)