020 いのちの願いを聞く法要

伊藤 康

私がお世話になっている善行寺があるいなべ市藤原町古田には、数年前からサル、イノシシ、シカなどの山の動物が集落にやってくるようになりました。ただやって来るわけではなく、村の方々が作られた、農作物を食べ荒らしていくのです。

せっかく苦労して作った野菜や米を無断で食べられてはたまりません。そこで、檻を仕掛け、捕まえることにしましたら、次から次に沢山のイノシシやシカが入ってきたそうです。

さて、その動物はどうするのかというと、刺し殺したのち、処分場に埋めるそうです。

二年前、ご門徒から、あまりにも沢山の動物を殺し、心苦しいから、お寺で供養をしてくれないかと頼まれました。そこで、「獣供養」として皆さんと共にお勤めをすることになりました。しかし、引き受けたものの、私の中では、この法要は一体どういうお参りなのだろうかと考えさせられました。

そもそも、動物が人里に出てくるようになったのは、人間が材木を売るために植林をしたが、値段が安くなり、山の手入れをしなくなったためであるとか、農業以外の現金収入のために勤めに出て、山に人が入らなくなった為であるなど、様ざまなことが言われています。

しかし、どちらにせよ、その時々の人間の都合によって引き起こしているのです。それを、作物を荒らすからと、またも人間の都合で「害」獣にして殺してしまう。

私たちは、他の生き物や植物の命をいただいて、命をつないでいます。しかし、この殺処分では、命をいただくことはありません。邪魔だから殺して処分しているのです。それをしてはいけないとは、誰にも言えないことでしょう。ですが、他の生き物を殺すことは許されることではありません。

このことは、現代社会を生きる私たちの姿をうつし出してくれています。罪を犯しているのに、それは仕方のないことなのだと、自分たちの都合で正しいことにしているのです。お詫びをすればよいのでしょうか、感謝すればよいのでしょうか。そんなことではすまされないでしょう。

この「獣供養」で、人間の都合にしか立てない私たちが、他の生き物を殺し、悪を犯し続けねば生きていけない身であることを知らされました。そして、そのことを悲しみ続けてくださる全ての生きとし生けるものの「いのちの願い」、全ての死んでいった「いのちの呼び声」を聞かせていただくしかないことを、皆さまと共に確かめさせていただきました。

(三講組・善行寺 住職代務者 二〇一六年十月下旬)