017生死無常のことわり

桑原 克

 今年三月に、弟が仕事場で急死しました。朝、いつものように元気に出かけたのですが・・・。
 まさかの出来事で気が動転する中、仏事を迎え、お通夜には、二〇〇人を超えるお参りがありました。突然のことで、家族も知人もただ驚き、何が起こっているのか、朦朧としたままひと通りの仏事を済ませました。その後、七日参りのたびに、法話を聞きながら、残された連れ合いや、子どもたちと、「いのち」や「人生」について住職が話し合いをしていました。

 「いのち」とか、「人生」について、考える時間ができたことは、大変よかったのではないかと思っています。
 改めて、私にとっての弟の死は、「おまえも死ぬぞ」、「本当に死んでいけるのか」と、今の生き方が厳しく問われた気がします。目先に追われ、いつまでも「いのち」があるかのように思い、生活をしています。まだまだ、死ねない、未練の残る生き方しかしていない自分が、あぶり出されました。

 親鸞聖人のお手紙に、「生死無常のことわり」(『真宗聖典』六〇三頁)という言葉があります。人生のはかなさ、〝生まれた者は必ず死す〟という道理のことです。このお言葉は、いのちには「道理」がある、ということを教えられています。
 
ご法話でお聞きしたことは「いのちの全相」という言葉でした。いのちは、四つの相、すがたを持っているということでした。

一つは「生相」(生まれるというすがた)、
二つ目は「老相」(老いるというすがた)、
三つ目は「病相」(病気になるというすがた)、
四つ目は「死相」(死んでいくというすがた)です。

 これがいのち全体のすがたであるということでした。実は、それは本来のすがたであり、いのちの事実であります。しかし、私たちはこの事実を真っ直ぐに受けとめられない、深い無明を生きています。南無阿弥陀仏は、「事実に還れ」という呼びかけです。その呼びかけが聞こえる時、この事実に深く頷く時、悲しみに向き合い、苦しみを背負う力となるのではないでしょうか。

 生活は、私の思いに立つか、道理に立つかの選びです。今回の弟の死を通して考えさせられました。

(桑名組・西恩寺門徒 二〇一三年五月中旬)