015別れからはじまる出遇い

折戸沙紀子

 私は、お寺に帰ってくる以前、葬儀会館で勤めていました。
 勤めていた葬儀会館では、年間八〇〇件ほどの葬儀があり、たくさんの人・葬儀をみてきました。
その中には、身近な方をなくした、ご家族のさまざまな思いや、感情のぶつかり合い、そして、短い時間で通夜・葬儀をむかえられる慌ただしさがありました。

 この、たくさんの気持ちが行き交う空間と時間の中で、私はとても苦手とする業務がありました。
 それは、着付けです。
 三畳ほどのスペースで、一人一五分程で着付けを行います。
 たった一五分という時間ですが、着られる方というのは、故人の奥様や、娘さんや兄弟、故人ととても身近な方です。
 着物を気にされる方もいれば、親戚のご心配や、会葬者のご心配をされる方、故人との思い出を語られる方、たった一五分の中での会話は、いろいろありました。一五分の会話は、あっという間です。
 
 しかし、このような方もおられました。まったくお話されず、無言の方。故人が亡くなられてから一度も食事をとることができず、げっそりとされている方。放心状態の方もみえました。
 そんな方と、三畳のスペースで二人きりでいる一五分が本当に苦手でした。
 静の一五分はとても長く、何を話せばいいのか、どう接すればいいのか、ただただ、一五分という長い時間を、頭の中でいろんな思いをめぐらせて静かに終わるだけでした。

 あるとき、職場の先輩に着付けが苦手だということを相談しました。
 すると先輩は、「私は一番着付けが好きよ」と言われたのです。
 「何で着付けが好きなのですか」と聞きましたら、先輩は、「故人が、どんな方だったのか、知ることができるから好きなんだよ」と言われたのです。
 先輩は、着付けの一五分は、故人がどんな方だったか、どんな風に生きられたか、家族にどれだけ大事に思われているのか、お話しされる方の一五分でも、無言の方の一五分でも、少しだけでも、何か気づくことができる時間だと教えてくれたのです。

 人と人との出遇いには、必ず別れがあり、そして、別れというのは終わりを意味していると、私は思っていました。
 しかし、先輩の何か気づくことのできる一五分というのは、人と人との別れからはじまる出遇いなのです。
 私は、故人や家族が、私に出遇おうとしてくれていたのに、それを無視していたのです。

 別れからはじまる出遇い。先輩のように、すぐにはなかなか出遇うことができませんでしたが、一五分の静けさから生まれる苦手な感情は、何かあたたかいものに変わっていきました。
 それが、出遇っているのかどうかはわかりませんが、人と人との出遇いには終わり、なくなっていくものはない。別れという出遇いが、家族だけでなく、たくさんの人の心に生きていって、伝わり、大きく繋がっていくのだと感じました。

(南勢一組・法受寺候補衆徒 二〇一三年五月下旬)