024殺人の正当化

米澤典之

2020年に開催が決まった東京オリンピック。その招致活動の中で、日本の死刑制度に厳しい視線を送るEU(ヨーロッパ連合)への印象を配慮して、招致期間中の死刑執行を控え、開催が決まった途端に執行を再開したことが国内外から指摘・批難されています。

私たちの教団は1998年以来、国内で死刑が執行されるたびに「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を発表し、社会に発信してきました。

親鸞聖人の師である法然上人が出家された背景にこのような話があります。

役人であった法然の父は、夜討ちに遭って命を落とします。その死に際にありながら

われこのきずいたむ。人またいたまざらんや。

われこのいのちを惜しむ。人あに惜しまざらんや。

(『法然上人伝絵詞』)

と、つよく仇討ちを戒める言葉を遺したといいます。

それは、

この世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

(『法句経(ダンマパダ)』※1)

と遺した釈尊の教えではなかったでしょうか。やられたらやり返す、仇討ちが当然とされた時代のなかで、この遺言がゆくゆく親鸞聖人との出遇いへとつながっていったのです。

釈尊の言葉をいただく仏教徒としては、いかに国家や集団が「正義」の名のもとに「殺人」を正当化しようとも、その片棒を担がされることに異を唱えねばなりません。

殺人によっていのちを奪われた遺族感情をマスメディアに煽られ、死刑という殺人を黙って認め続けてきたことが、教えに反した態度であるということを確かめておかなくてはならないと思います。

集団的自衛権の行使を認めることで、集団殺人を正当化していく風潮がつくられていくなかで、私たちの意識が深く問われます。黙って認めることは、自分自身のいのちさえも奪われていくことを容認することになるのではないでしょうか。

戦争という集団殺人、死刑という殺人に対して、

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。

己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

(『法句経(ダンマパダ)』※2)

との釈尊の教えを確かめ、法然上人から親鸞聖人に受け継がれた歎異の精神から、加害者にも被害者にもなりうる私たち一人ひとりが、教えに立った態度を表明することが求められてきます。

それはどこまでも私たちの信心の問題だからです。

※1 『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫一〇頁

※2 『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫二八頁