023大悲無倦常照我

中川和子

朝、慌ただしく出かけようとして、玄関にかけてあるカレンダーの法語に思わずギクリとなりました。

そこには、

拝まない者も

おがまれている

拝まないときも

おがまれている

(東井義雄『真宗教団連合二〇一四年法語カレンダー』)

と書いてありました。

何か今の私を言いあてられたようで、逃げるように家を出ました。そのとき思わず『正信偈』の「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」が頭に浮かびました。阿弥陀仏は24時間、倦みつかれることなく私を照らし続けてくださっているのに、その光が射し込むはずの私の窓はいつも閉まっていることが多いのだと思いました。

先日観た『2つ目の窓』という映画で、死にいく母を看取る16歳の少女に、老人が「永遠の里帰りじゃ」と温かく語りかける場面がありました。生者と死者の別れを歌ったといわれる奄美北部(映画の舞台)の島唄でみんなと母を送る場面も印象的でした。

[歌詞の一節]

(送る側)「やっぱり逝ってしまうのね?」

(送られる側)「どうしても遠い島に逝かなければならないの。でもきっとあなたを想い出して、戻ってくるからね。」

死はほんの一時の別れで、またすぐ遇えるという詞(ことば)を、私たちは自分の身ではなかなか受けとめられないことです。奄美に伝わる教えでは「いたみも安心もあたえられるもの」として、ただあるがままを受け入れていくだけだということを次の世代に言い伝えていく儀式が、特別で重要なこととして位置付けられていました。

身近な誰かが逝ってしまっても、あたりまえに日常は巡ります。そこに身を置く私たちのために、先人から私、私から次世代へと教えが伝えられていく約束の日として、お盆やお彼岸、お年忌等、亡き方のご命日にちなんだお参りの日はぬきさしならない特別な日なのだと思います。亡き方をご縁に、みんながそれぞれ日常のことをほっといて集まり、一緒に拝めて唱(うた)える大事な日です。

私たちが普段おつとめしている『正信偈』は、阿弥陀仏や、数限りない諸仏のはたらきに想いを馳せる暇(いとま)もないこんな私でも、見捨てずに既に摂めとられてあるのだよという大きな安心を、750年以上も長きにわたり語り継いできてくださっているのだとあらためて思わされたことです。