016如来の本願は既に我が身に成就されていた

渡邊 誉

今から約2ヶ月前の3月27日から三昼夜4日間に亘り、三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修されました。

御遠忌法要を終えてみて、私が今思うことは、参集されたすべての方々のご苦労に先立ち如来の本願のご回向によってそれぞれがそれぞれの「力」を出させていただいた尊い法要であったとしらされたことです。

僧俗、老若男女がそれぞれの立場で法要の本番、準備に一心に心身を尽くされている姿を拝見し、そのことを感じられずにはおられませんでした。

さて、その法要に先立ち私はこの度1月28日に真宗本廟、御影堂の宗祖親鸞聖人御真影の前にて西願寺住職を任命されました。

住職を拝命してあらたに教えられたことがあります。それは「如来の本願は既に我が身に成就されていた」。すべてはこのことから始まっていたということです。このことが実感を伴って感じられるようになりました。

私の心の中には確かなものは何一つありません。有るのはただ、貪る心と怒り、刺激を求め退屈している心です。そして、その我が身や世間で起こった出来事に優劣を付け自分に都合よく判断しながら毎日を過ごしています。そして何かに脅えながらその脅えがどこから来ているのか、何に対しての脅えなのかもはっきりしないまま漠然と漂っています。そして、それを少しでも遠ざけ「明るく、より良く」生きようと思い、あくせくしています。

平素、そのことが問題にならない時はいいのですが、少しでも自分に都合が悪くなるとすぐに悩み、落ちこみ、解決しないと原因を外に見出そうとします。そしてなんとか自分で解決の糸口を見つけると今度は自分の手柄にしてしまいます。徹底してそのことがわかっていません。逆に解決せずどうにもならないと心境を一変させて、「仏法を聞けばなんとかなる」と易く考えます。

そして「仏法を聞く」形をとるのですが、今度はそれが知識として理解し頭がでかくなるだけで少しも心が暖まり安心と満足を覚えません。そんな自分が浅くて狭い生き方をしていることをこれっぽっちも思っていません。他者を恨むか自分を呪うかです。どん詰まりのどん底の自分。その自分からは何も出て来ないことがはっきりと知らされた時、本願が自分に呼びかけ続けられていたことに気づきました。本願の方から突破して来ていたと知らされました。「救われる」「救われない」というこちら側の判断や思いを超えて、如来から「あなた自身を生きよ」と。嘆き悶えるほど苦悩する身に如来の本願は既に成就されていたのです。

過去が報われ、未来を待たず、敵も味方もそのままで融け(と)ていく今日を…迷いや苦しみの中にあっても退屈せずに意欲的に毎日を新鮮に生きられます。否、迷いや苦しみこそが本願が聞こえるチャンスだということなのでしょう。