006本願の大地に帰す

木村大乘

この度、3月27日より30日にかけて、三重教区・桑名別院におきまして、「共に大地に立たん」のスローガンの下に、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修されます。

ところで、この「共に大地に立たん」というテーマになった背景には、どのような願いが込められているのでしょうか。

私たちは誰にも代わることのできない身を受け、この世界の中で自分が一番可愛いという愛着心を我としています。そして、誰にも譲ることのできない自分を根本的に満足したという深い欲求を生きているといえましょう。それ故に関係存在として世界の中に在る私たちは、解け合える人間関係の構築を願いながらも、利害損得の対立意識が起これば、時に敵意を感じ、その存在さえ「居なくなればいい」という想いさえ起ってきます。そして、優劣という価値意識に煩悶(はんもん)し、良し悪しの心に翻弄されながら、どこかで取り残されていくような寂しさ、言い知れない空しさを感じながら、そしてこのままで人生が終わっていくのかという底知れない不安と孤独を生きている存在といえましょう。

しかし、幸いにも私たちに先立って、この生死苦悩の根本問題を一筋に道に求め、聞法のご苦労の歴史に身をささげてくださった本願念仏の歴史があったのです。

親鸞聖人の主著『教行信証』には、阿弥陀の大悲の本願を「大地」に喩(たと)えて

悲願は、…なお大地の如し、三世十方一切如来出生するが故

(『真宗聖典』202頁)

と表されています。

驚くべきことに、私たち一切衆生の宿業(しゅくごう)煩悩の苦悩の大地は、そのまま不可思議にも、時空を超えて、如来久遠の大悲の願心の中に限りなく深く、甦(よみがえ)って来る未来がすでに開かれているといえましょう。