034腰痛から仏法!?

中川達昭

今年の夏に腰を痛めてから、ずっと整体に通っています。

整体の先生がおっしゃるには「いまきちんと治癒させておかないと、また腰痛が再発します」とのことでした。これまで腰を痛めても、自分では治ったと思っていたけれど、本当に悪いところはまったく治っていなかったようです。言い方を変えれば、「治ったつもり」になっていたということです。

翻って、私たちの日頃の聞法はというとどうでしょうか。どうも私たちは「聞いたつもり」、「解ったつもり」になっているようです。

ある門徒さんがしてくれた、自身の子どもの頃の話を思い出しました。その方のおばあちゃんは足しげくお寺に通い、子ども時分の門徒さんにも、「ひとりでは念仏は出てこん。聞いて、聞いて、聞きぬかんと念仏は出てこん」と常日頃おっしゃっていたそうです。何かと理由をつけては聞法から遠ざかっている私には非常に耳の痛い話でした。

『仏説無量寿経』に「如来の智慧海(ちえかい)は、深広(じんこう)にして涯底(がいてい)なし」(真宗聖典50頁)とあります。如来の智慧のありさまを海にたとえて、その海は「広くて深く、まるで岸も底もないようなものだ」というのです。それは逆の言い方をすれば、私たちの真っ黒い腹の中が「深くて広く、まるで岸も底もないようなもの」だから、如来の智慧もそうでなければならないのだと、この経文をいただきたいと思います。

この門徒さんのおばあちゃんも、聞きぬいた果てに、「深広にして涯底なし」であることに気づかされ、「聞いたつもり」、「解ったつもり」の自分であったと気づかされたのではないでしょうか。ですから、このおばあちゃんは、「一度や二度聞いたくらいで仏法は解らんぞ。わしたちは、それくらいで簡単にひっくりかえるような殊勝な根性はしとらんぞ」と、孫であるご門徒さんに伝えたかったのではないか、そのように思えてなりません。

念仏しても私の腰痛は治りませんが、腰痛が仏法の縁となりました。なかなか治らない腰痛も、こういうことがあると少しはありがたく頂けるかなと思いましたが、そんな思いは瞬時に消えていきました。まだまだ私はひっくりかえっていないようです。