030仏の物差し

中川達昭

去る9月7日の新聞に「自殺やうつ病経済損失2.7兆円(毎日新聞)という記事が載りました。どういうことかというと、2009年に15歳から69歳で自殺した2万6539人が、亡くならずに働き続けた場合に得られた生涯所得額と、2003年のうつ病患者数の推計値を基にした失業給付額や医療給付額などの総額を推計したものだそうです。この試算は、厚生労働省が自殺問題対策の一つとして公表したそうですが、みなさんはどのようにお感じになるでしょうか。

確かに日本は、毎年自殺者3万人以上という状況が10年以上続いて、大きな社会問題となっています。政府も事態を深刻に受け止めた上での公表なのでしょうが、私はこのような試算をすることによってしか、事態の深刻さ、さらには「人のいのち」の重さを推し量ることができないのであろうかと思えてなりません。

つまり、私たちは、いつの間にか金銭や数値に置き換えないとその価値が分からなくなっているということです。それは人間の道具化、モノ化の象徴であり、人間存在の根底を否定するものに他なりません。

よく法話の中で「人の物差し/仏の物差し」という言葉を耳にします。「信心いただくということは物差しが変わるんや。それまでの価値観がひっくり返されることなんや」という訳ですが、では、この「仏の物差し」とは具体的にどういう物差しかといえば、それは「目盛りの無い物差し」と言えます。それは、それまでの物差しから単に目盛りが大きくなったのではない。目盛りをもたない物差しこそが「仏の物差し」です。全てにおいて、はかることができない、はかることが無い、そういう物差しです。

けれども、私たちは自分の物差しを捨てることができませんし、折々に社会が生み出した物差し(価値観)に振り回されもします。しかし、「仏の物差し」を一人一人が持つことはできます。「仏の物差し」に照らせば、「それは違うよ。それは間違っているよ」と言うことができます。

どうぞお寺に足を運んで、「仏の物差し」に耳を傾けてください。私が私であるために、「仏の物差し」を私たち一人一人が持ちたいものです。